旧水戸街道を下るポタリングで府中宿(石岡)を目指して土浦宿,中貫宿,稲吉宿を訪ねた。9時15分過ぎに自宅を出発して牛久市田宮交差点から国道6号に入り,そこから前回に辿った旧水戸街道を土浦宿にHammerheadのハンドルを向けた。土浦宿入口の銭亀橋には1時間かかって着いた。桜川の桜は殆ど散ったが菜の花はまだまだ盛りだ。
土浦宿への旧街道を進んで行くと二階にまでフェラーリを展示してあるDino(デイノ) がある。中古車でも400万円から2000万円だとか。自転車ならば何台買えるか等と考えながらつくば科学万博に向けて建設された高架道路をくぐる。
そこにはかつては簀の子が掛けられていた簀子橋があったそうだ。信号の脇には南門跡の碑があり,ここから土浦宿に入ることを示している。
旧街道は右左とクランク状に曲がっている。曲がりきった右手には1607年に開山されたという東光寺がある。瑠璃光殿と呼ばれる薬師堂と枝振りの良い松があった。
黒のしっとりと落ち着いた民家の先には1201~04年創建の等覚寺があった。ここの鐘は国指定重文で,クロマツは市指定の名木とある。境内の枝垂れ桜も棄てがたい。
等覚寺の直ぐ先の右手に気になる,懐かしさを覚えるようなパン屋を見つけた。入ってみるとシベリアという名前は聞いたことのある菓子(ケーキ)が売っていた。この店のシベリア(2個で250円)はカステラに羊羹を挟んだ物だ。あんドーナツ(1個100円)とともに買ってみた。シベリアのカステラも羊羹も柔らかくて持つのも苦労するほどだ。あんドーナツはややもっちりとした食感だった。
パン屋の前は花蔵院だ。ここには市井の科学者であった沼尻墨僊(ぬまじりぼくせん, 1775〜1856年)の墓がある。墨僊は傘式地球儀や渾天儀を作製している。その地球儀は10年くらい前に土浦市立博物館で見たことを思い出した。
花蔵院の先で街道はまたまた右左のクランク状に曲がる。その先は土浦市観光ボランティア協会お奨めの城下町巡りコースになっている。
山口薬局は昔の風情を残して佇んでいた。反対側の民家の門扉には古い写真が掲げられていた。旧街道は電信柱が取り払われ,昔の家屋も建て込んでない町並みなのですっきりしている。
しかし,昨年の東日本大震災の復旧がいまだに進行中でここの観光目玉と言える矢口家住宅(矢口酒店)の屋根にはブルーシートが残り,土浦まちかど蔵の「野村」や「大徳」は工事用シートで被われていて見るも痛々しい。
大徳の方は内部に入ることは出来るものの二階には上がれなかった。今年の6月か7月には修復できる目処だという。ひな祭りの時は吊るし雛で賑わい,二階の廊下の欄間の近江八景の彫り物を鑑賞する観光客で一杯になる。その光景を見たのは数年前のことだ。
野村の辻から入ったところには不動院があり,境内には力比べで使った力石が置いてあった。その内の一個は四十五貫目(168.75kg)と刻んであった。ギックリ腰になった若者もいただろうか。
旧街道は中央一丁目の交差点で土浦駅西口から伸びる亀城通りと交差する。ここに「ほたて」天ぷら屋がありその角に桜橋の碑と土浦町道路元標が鎮座している。かつてはここに桜川が流れており,ちょうど東京(江戸)の日本橋に匹敵する土浦宿の中心だったことを偲ばせる。
11時20分にもなっていたので,ほたての「掻き揚げ天丼750円」の張り紙に目が(腹が)眩み暖簾を掻き分けた。中はこれまた古風な趣を残しており,掻き揚げ天丼もなかなかのものだった。とりわけ,大きな豆腐に魚のアラがはいった味噌汁で腹が満たされた。
腹ごなしにはなるまいが,亀城(土浦城)に寄り道した。ここの震災の復旧中で櫓門もシートで被われていた。
ふたたび旧街道を進み,土浦商工会議所のカーブ手前に本陣跡(大塚家跡)の標柱を見つけた。
ここで街道は左に曲がって伸びていく。
またもや左右のクランク状に曲がる。そこに月読神社があった。脇の石碑はここがかつて横町と呼ばれたと記している。ここまででこのような旧町名の標柱を何度か見かけた。土浦市内にはいにしえの水戸街道を守っていこうという気概がそこかしこにうかがえる。
クランクを曲がりきった右手には北門跡の標柱が建っている。昔の旅人はここで土浦宿を去って次の中貫宿に向かうことになる。
新川橋を渡り,今はつくばりんりんロードなっている,旧筑波山鉄道を越えて街道は続く。やがて旧街道は狭くなり一方通行の上り坂にでくわした。
この交差点を右に入ったR354沿いに善応寺がある。善応寺は常陸西国三十三観音霊場の第八番札所で2007年6月に巡礼している。寺の下にある照井の井戸は今も水が湧き出ている。
旧街道の真鍋坂にも風情を残した民家があった。この坂を上り詰めると国道125号に合流する。
そこには土浦第一高等学校があり,脇の道を右に入ったところに真鍋小学校がある。真鍋小学校は校庭に咲く真鍋の桜で有名だ。すでにあらかた花びらは散っていた。土浦一高は旧制中学校の古風な建物で有名だが,門扉は閉ざされ校内に立ち入ることが出来ない。
R125となっている旧水戸街道を下っていき若松町交差点の手前を右に分かれてR125/R354の高架パイパスをくぐる。
バイパスの向こうの右手は日立電線の工場で,そこから板谷の松並木が始まる。松並木の中間辺りには板谷の一里塚が両側ともに残っている。案内板には,日本橋から布川を経て20里の位置にある,とある。布川経由だから初期の水戸街道での一里塚である(初期の水戸街道は我孫子宿からは布佐〜利根川渡し〜布川〜若柴宿とつづき,当時は取手宿は無かった)。さらにその先の変則十字路の脇に昭和4年に建てたとある道標を兼ねた電灯建設記念碑があった。
その先で旧街道は県道64号線に合流する。そこから先の旧街道はR6のパイパスのために寸断されている。オーバーパスで向こう側に渡ると標柱がありそこから旧街道が延びていく。
バイパスを離れた中貫宿は静かでここには本陣が残っている。かつては茅葺きだった唐破風造りの式台付玄関には風格がある。生活空間だから内部を見ることは出来ない。
中貫郵便局の前には堂々とした旧家があり,局の脇には馬頭観音碑が建っている。旧街道にあった土浦市による「フィールド博物館・土浦」の標柱はここまでだ。
やがて旧街道はR6に合流し,かすみがうら市に入る。
排気ガスにまみれてR6を走ると旧街道は左に分かれていくことをしめす案内標識がある。
分かれ道の脇に,うっかりすると見過ごしてしまいそうだが案内板によって分かる下稲吉の一里塚がある。ほとんど民家の梨畑になっているようだ。
R6から左に旧街道を稲吉宿に入って行く。ここ稲吉宿にも本陣が残っている。本陣は街道よりも一段と高く,玄関屋根の上には領主(本堂氏)の笹りんどうの紋が見える。
本陣の隣には旅籠皆川屋(木村家住宅)がある。引き戸を開けて内部を覗いて見た。ななっ何と,薄汚れた狆だかテリヤが飼われいて,糞が落ちていた。さらにサンドバッグやウェイトトレーニング用のベンチがある。江戸時代と現代が混沌としていた。ちょうど家人が見えて聞いてみたが二階には上がれないようだ。
七会郵便局の前を通ってかすみがうら市千代田庁舎に出た。
その先の土田集落はちょっとしたアップダウンがある。
土田観音寺には厄除け不動やら厄除けの鐘があった。よほどここら辺りには厄にあたった村人が多かったのだろうか。
旧街道沿いには古めかしい堂宇があるが,何なのだろうか。その先の下土田交差点でR6に合流した。
下土田交差点の先は常磐高速の石岡ICのランプだ。ランプがR6と交わる脇にはほぼ完全なかたちの千代田の一里塚が残っている。反対側の一里塚はR6の拡張工事で取り去られたそうで,今は無い。
旧街道はR6の新治小(にいはり)入口から左に入る。アップダウンを過ぎると市川の交差点で恋瀬橋ロードパークに行き当たった。この恋瀬橋で恋瀬川を渡ったところが府中宿(石岡市)だ。
3時を回っていたので今日のポタリングはここまでとした。自宅から亀條公園に寄り道をしながら33.64kmだった。帰路はR6とR6旧道を真っ直ぐに走って自宅に帰り着いたのは四時半過ぎだった。本日の走行距離は61.2km,実走時間は 4時間15分,総時間は7時間17分であった。 いゃ〜,ポタリングは意外に疲れます。