イタリア旅行記
「イタリア10大ハイライト10日間」というトラピックス(阪急旅行社)のツァーに出掛けた。期間は2011年3月29日〜2011年4月7日という東北地方太平洋沖地震の直後で毎日余震が続いている最中である。3月24日までアリタリア-イタリア航空が成田からの離発着を関西空港に変更していて,ツアーが催行されるか不安だった。しかし出発の二日前に添乗員からの挨拶を兼ねた催行の連絡があり,ようやく旅行支度に身を入れることができた。
一日目(2011年3月29日,火)
9時40分に予定されていたAZ-783便のローマ行きは10時45分に変更となったお陰でゆっくりと成田まで車で行けることになった。大震災が影響してツアーの参加者は14名に減ってしまった。6名が兄弟姉妹会,我々夫婦を含めて4組の夫婦という高齢者ばかりの一行である。添乗員さんのブリーフィングの後,手荷物を預けて,さらに出発時間が10分遅くなっての便に搭乗した。
キャンセル後の空席は埋まらなかったらしくゆったりとした機内の窓からは富士山が望めた。やがて出た機内食ではカミさんはビール,自分はトマトジュースをいただいた。
13時間あまりの飛行時間で2度の機内食が出た。それぞれ白ワインと赤ワインをおいしいチーズとともにいただいた。アリタリアーイタリア航空はエコノミークラスでもワイン,ビールが無料で振る舞われるのだ。心も胃袋もはやイタリアである。
映画を見たり,本を読んだり,居眠りをしている間に現地時間(ヨーロッパ夏時間)16時45分にレオナルド・ダ・ヴィンチ空港に着いた。入国審査官にブォンジョルノと挨拶をしてパスポートに入国スタンプを押してもらって,空港に待っていたバスに乗り込んだ。30人乗りのバスに,これまたゆったりと乗って295㎞さきのカレンツァーノに向かって北上した。カレンツァーノは明日の予定のフィレンツェに近い町だ。21時過ぎにようやくホテル「デルタ」に到着した。やれやれ,長い一日だったが明日からは強行軍のツアーだぞ。お休みなさい,というものの体のサーカディアン・リズムはまだ14時なのだ。
二日目(2011年3月30日,水)
時差ぼけでボーっとしている頭で七時半にバスに乗り込んだ。目指すはフィレンツェだ。1時間ほどでミケランジェロ広場に到着。ダヴィデ像(レプリカ)の視線の先にフィレンツェの町並み,アルノ川と城壁跡が望める。靄に包まれていてちょっと残念だった。
まず案内されたところは革製品の免税店だ。私たちには興味もないけど,こういうところはトイレを使うというチャンスでもあるのだ。店員さんは日本人が多く,全く買い物には不自由しないように出来ている。
ミケランジェロらが眠るサンタ・クローチェ教会を歩み見ながら,今日のメインのウフィツイ美術館に入った。
入り口では厳重な持ち物チェックがあった。リュックサックやペットボトルの飲み物は禁止と,飛行機の搭乗チェック並である。カミさんはうっかり貴重な日本茶が入ったペットボトルを持ってきてしまったが,チェックをすり抜けてしまった。みれば係官はX線検査の画面を見てなくて携帯電話に熱中の最中であった。あ〜,これがイタリアなんだ。
あらかじめ予約をしておいたのだが,ここイタリアでは前売り券の方が当日券よりもチケット料金が高くなっている。前売りならば確実に入れるので保証料(11ユーロに4ユーロのプラス)が追加されるという合理的なイタリアの常識だとか。
ウフィツィとはオフィスのイタリア語でかつてはメディチ家のオフィスだったということ。その廊下の両側に美術品を飾ったことからギャラリー(画廊)という言葉が生まれたとのことだ。この廊下を426年前(1585年3月7日)に天正遣欧使節の少年たちが,メディチ家の舞踏会に向かって歩いたのだろうか。
残念ながら館内は撮影禁止なので,あとでゆっくりとバーチャルウフィツイ美術館 で残った印象を思い起こしてみた。日本人のガイドさんの説明でボッティチェリのヴィーナスの誕生,春,ダ・ヴィンチの受胎告知,ミケランジェロの聖家族,ティツィアンのウルビーノのヴィーナスなどを鑑賞した。ヴィーナスの誕生は板ではなくキャンバスに描かれていて,大きな布キャンバスをつくるため上下2枚の布を縫い合わせてあるそうだ。その縫い目が実物ではうっすらと見える。駆け足の鑑賞となったが,じっくり見てまわるには半日を費やしてもまだ足りないだろう。
ヴェッキオ橋を横目に,野外彫刻美術館とも言えるシニョリーア広場に行く。ヴェッキオ橋はウフィツイ美術館の窓から見下ろして撮影することが出来た。美術館内の撮影は禁止だが,ここはオーケーということだった。
ヴェッキオ宮殿(現在はフィレンツェ市庁舎)の時計塔の前の広場には様々な彫刻(市庁舎前のタヴィデ像とほか一体の像以外は全部が実物)が並んでいる。
このネプチューンの噴水は酔っぱらった若者が登って腕を折ってしまい,労働奉仕の罰が与えられたとか。
フィレンツェの象徴とも言えるドゥオモを見学した。クーポラには登る時間は無かったのが残念だがその内部の天井には最後の審判をモチーフとしたフレスコ画が描かれている。
ドゥオモの隣にはロレンツォ・ギベルティ作の扉(レプリカ)を持つサン・ジョバンニ洗礼堂がある。
お昼はビーフ料理だった。気分は高揚していて昼から赤ワインで乾杯。この調子じゃどれくらい太るだろうか。
お昼の後はダンテの家をちょこっと外からみる。ダンテの横顔の模様の敷石があった。鉤鼻がダンテを現している。そのあとはベネチア近くのメストレに向かうバスに乗った。
バスは281kmを4時間で走り,ホテルアントニー・パレスに着いた。夕食までにはちょっと時間があったので,近くを散歩した。ホテルの隣のガラス屋でベネチアングラスを眺める。あまりに安い物はレプリカだったろう。
ホテルでの夕食はフジッリのパスタと魚料理だった。ワインは止めてビールを飲んだ。やはりイタリヤビールよりもイタリヤワインの方が好い。ビールとワインの値段はあまり変わりない。それほどワインが安いということだ。
三日目(2011年3月31日,木)
今朝はちょっとした事件があった。朝食後に部屋に戻るときに,我々を含めて,8人が部屋が分からなくなって迷子になってしまった。渡されたカードキーにはセキュリティーの上からか部屋番号が書いてない。それでも2階の部屋だと記憶していたので200番台の部屋を探した。しかし200番台の部屋は3階にあるのだ。ヨーロッパでは日本の1階が0階で,日本の2階が1階なのである。そうこうしていて持っていた旅行日程表に部屋をメモしておいたことに気付いて見ると,139号であった。100番台の部屋はヨーロッパでは2階にあるのだ。そのことに気がついて8人はようやく自分の部屋を探し当てた。やれ,やれ。
朝靄の中をホテルを8時に出発した。映画「旅情」の冒頭でサンタ・ルチア駅にむかうキャサリン・ヘップバーンが眺めてたベネチアの町は霧に沈んでいた。ローマ広場でバスを降りて水上バスに乗り換える。左右の教会を眺めながらサン・マルコに到着した。
サン・マルコ広場に向かう途中の水路には名所の溜息の橋があるというが,あいにくと手前の建物が修理中でTOYOTAのネーム入りのでっかいブルーシートに邪魔されてかろうじて見えるだけだった。ベネチアもしょっちゅう修理をしないと水没の運命にあるということだ。
ドゥカーレ宮殿を眺めながらサン・マルコ広場に入っていく。まず,サン・マルコ寺院へ入る列に並ぶ。ここでは男性は帽子を脱ぐが女性は被ったままで良いとコンダクターに注意される。帽子を被っている女性は娼婦でないという証だからとというのがその理由だ。
サン・マルコ寺院はギリシャ正教の聖堂で5つのクーポラをもつビザンチン様式(ロマネスク,ゴシック,ルネサンス様式も混じっているが)が特徴だ。ファサードのアーチのモザイク画,ベネチアのシンボルである有翼のライオン像,寺院上部の聖人像なども見飽きない。
寺院内部は撮影禁止だったので,サン・マルコ寺院の公式ページ から内部の記憶をたどってみた。内部に入ると,キリスト教信者でもない自分でも息を呑むほどの荘厳な雰囲気に包まれた。旧約聖書,新約聖書に書かれている出来事が黄金のモザイク画でクーポラ天井が飾られている。
陶然とした面持ちで寺院を出てきた後はヴェニチアングラスの工場見学と免税店での買い物だ。しかし,3月11日の東北地方太平洋沖地震で茶箪笥から皿や茶碗が落ちて割れた体験もあって,グラスを買おうという気分はなかった。確かに美しいグラスではあるが,いくつかの陶磁器とクリスタルグラスをもつ我が家にはどうにも会いそうもないようだ。カミさんはグラスよりもヴェネチアンレースに興味を持っていて買いたかったようだが,ほとんど自由時間のないツアー旅行では無理なことだった。ウィンドウショッピングで我慢するほかなかった。
ショッピングのあとはゴンドラ遊覧だ。ワンちゃんを乗せたゴンドラでベネチアの水路を遊覧していった。不思議なことに潮のにおいがしてこない。乾燥した空気で鼻が乾いていているからだろうか。それに水も思ったよりも澄んでいる。でもコンダクターの言うことには,ゴンドラの乗り降りで水に落ちたら三日間の検査入院しなければならないそうだ。本当だろうか? 幸いにも一行は水に落ちることもなくゆったり,のんびりと遊ぶことができた。残念ながら,溜息の橋と同様に,ヴェネチアのシンボルの大理石でつくられているリアルト橋はゴンドラ遊覧で鑑賞したにとどまった。
ゴンドラを下りたら昼食が待っていた。きょうのメニューはイカスミスパゲティーと魚介類のフリッターだ。飲み物はビールだ。サービスで出してくれたピッツァはあまり評判良くなかった。旅慣れてきたこの頃になると,朝食で出たバターやジャムを頂戴してきて,昼食のパンに利用するメンバーもでてきた。皆さん,さすがに旅慣れています。
食後はふたたび水上バスに乗りバスの駐車場にもどり,ヴェネチアをあとにしてブドウ畑の中を124km離れたヴェローナに向かった。
城壁に囲まれたヴェローナはローマ時代の遺跡の上に立っている。見張塔のすぐ脇には現代の家の壁がある。
まずはシェークスピアのロメオとジュリエットの舞台となったジュリエットの家をみる。ジュリエットも実在しなかったし,シェークスピアもここヴェローナには足を運んでないそうだ。「おおロミオ…」とやったバルコニーもある。庭にあるジュリエットのブロンズ像の右胸に触れると幸せになると,人々が群がっている。イタリヤには順番待ちという観念が無い(薄い)そうで,どんどん割り込んでいくのが常識とか。で,カミさんも… 表通りにはロメオとジュリエットにちなんだチョコレートを売っているお店もあった。
シニョーリ広場で15分ほど自由時間の間にカミさんがタワーに登ろうと言うのを断ったらご機嫌を損じたらしく,さっさと一人でいってしまった。仕方なく,知らんぷりをして自分は近くの露天を覗いたりする。
再び集まって,徒歩でカステルベッキオにむかう途中でイタリアで三番目という大きさのアレーナ(円形闘技場)を眺める。工事中の幕の後ろに3層目の外壁の一部が残っている。現在ではここで夏になると野外オペラが催されているということだ。アレーナ脇のブラ広場を歩いてバスに乗り込んだ。
165kmを二時間半で移動してミラノに着いた。7時に街中のレストランで夕食をとる。レストランは修学旅行らしい若者で混み合っていた。今晩のメニューはペンネのパスタにミラノ風カツレツだ。飲み物は赤ワインを注文。八時半に今日の宿であるイデア・ミラノ・サンシーロに到着。ここにはバスはなく,シャワーのみだった。
四日目(2011年4月1日,金)
今日はエイプリルフールだが,だれもかついだり,かつがれたりしない。自分を含めて皆さん,旅行中であるのでエイプリルフールであることさえ忘れているようだ。7時40分にバスに乗り込んでミラノのサンタ・マリア・デッレ・グラツィエ教会に向かった。予定通りの予約時間にレオナルド・ダ・ヴィンチの最後の晩餐を鑑賞できることが分かり(修学旅行などの予約が優先されて予約が変更されることもあるそうだ),まずは教会の中庭を散策した。
やがて鑑賞の時刻が来たので15人のグループに分かれて入場した。鑑賞時間は15分に限られており,現在では内部は撮影禁止となっている。内部のパノラマを公開しているウエッブページで記憶を呼び起こしてみよう。実物を目の前にして気がついたことは,テーブルの下にはサンダルを履いた足が描かれていたことだ。デーブルの上の人物像についつい眼が行ってしまい今まで気がつかなかったことだった。1995年に20年に渡った修復が完了したと言うが,ぼんやりした絵という印象だった。
名画鑑賞の後はスフォルツェスコ城を訪ねた。城内の広場は練兵場であったという。初夏を思わせる日射しで暑いくらいになっている。
スフォルツェスコ城からスカラ座広場を散策した。世界に誇るミラノ・スカラ座でオペラが催されるときは名士の到着がTVで中継されると言うことだ。広場にはダ・ヴィンチとその弟子の像が立っている。弟子たちはダ・ヴィンチのおホモだちだったとか。
スカラ座からヴィットリオ・エマヌエーレ2世ガレリアに入っていく。ガラスの天井からは光が降り注ぐ。中央十字路には,我々には興味はないが,有名ブランド店が軒を並べている。マックナルドもあったが,このガレリアでは店の色使いが規制されているので,看板の色は赤ではなく黒であった。中央十字路の天井には四大陸をイメージしたフレスコ画が描かれている。いっぽう床のタイルをみると,チンチン(?)部分に左足の踵を着けてグルッと左回りするとハッピーになるという幸福の牛がある。ヴェローナのジュリエット像といい,ここミラノの牛といい,カミさんばかりが幸福になっていくようだ。
ガレリアの抜けてドゥオモ(ミラノ大聖堂)にむかう。135本の尖塔と2245体の彫像が点にむかってそそりたっている様に圧倒される。中央の尖塔にはマダンニーナ(聖母マリア)の黄金像がそびえる。
内部は52本の支柱があり,ステンドグラスから射し込む光は荘厳さを否応にも増している。巨大なパイプオルガンが鳴り響いたらどんなだろうか。
ドゥオモを見学した後はリゾットの昼食だ。リゾットはこれが本場のアルデンテかというほどに歯ごたえたっぷりの堅さであった。日本風に言えば芯だらけだが,自分にはそれほど不味く感じなかった。ツアーの仲間とピッツアを別に注文した。このピッツアはなかなかいけた。オリーブオイルと酢がたっぷり掛かったサラダはイタリアでは後の方に出てくるメニューなのだ。
昼食の後は290km先のピサ(Pisaと書くのでイタリア語ではピザと発音する。昼に食べたのはピザではなくてピッツアだ。)に向かった。予定ではそのままピサに泊まり,斜塔の見学は翌朝だったが,ミラノ観光がスムーズにいって時間の余裕ができたので,今日中に斜塔を見学することにした。イタリアの背骨にあたるアペニン山脈を車窓から眺めながら4時間あまりを旅した。やがてバスはピサのチェックポイントの駐車場に到着した。このチェックポイントとは観光地にクルマが入るときにここで観光税を払うところだ。ヴェネチアでも払っている。
少し歩いてドゥオモ広場に入ると,緑の芝生に白亜の建物が見えてきた。広場には洗礼堂,ドォウモ,斜塔の3大建築がある。ドォウモの裏にはカンポサントというお墓の建物がある。斜塔は,思わず「お〜〜」と声が出るほどに傾いて今にも倒れそうな斜塔が見えてくる。ご多分に漏れずに斜塔を支える写真を撮ってもらった。斜塔は5階から上はずらして建てられているので,全体としてはバナナのように曲がっている。
斜塔の見学は予約してないので登ってガリレオの実験を再現することが出来ない。それで,自由時間にドォウモの見学をした。芝生広場まえのかつての病院の建物が入場券売り場となっている。入っていって「ドォウモ ドゥエ」といって入場券を買った。通じたらしくドォウモ入場券を2枚渡された。
内部にはガリレオが振り子の等時性の原理を思いついたランプがある。こんなにも大きい物とは思わなかった。回廊も後ろ正面も天井もすごい装飾だ。これらに目もくれずにガリレオは振り子が揺れるのを見ながら脈拍でテンポを数えていたのだろうか。内部見学を終えて外から改めてドォウモを眺めて見ると,斜塔だけでなくドォウモも傾いているのが,積み重ねられた大理石の縞模様から分かる。
集合時間がきてバスに向かう途中の露店を歩いていると,何人かのジプシー(ジプシーは差別用語だからロマと言うべきだが)がなにやら地図をかざして突進してきた。すると体を押しつけてカミさんのバッグを開けようとした。これが噂に聞くジプシーの泥棒であった。幸いにもカミさんは被害に遭わなかったが,ツアーのメンバーの一人はバッグを開けられて中のパンフレットやトラベルイヤホンを盗られた。しかし,価値の無いことがわかったのか,落ちていたとのジェスチャーをしながら返してきた。あ〜怖かったとツアー一同は胸をなで下ろした。
20時にホテル「ラパーチェ」に着いて,ホッとする間もなくピサの街中のレストランに出かけた。夕食はチキン料理だった。赤ワインとチキン料理がマッチして旨かったがドルチェの甘さにはちょっと…。ホテルの部屋はなかなか良かったが,バス無しはともかくも,1m四方ほどの狭く古いシャワーには参った。
五日目(2011年4月2日,土)
ようやくからだがヨーロッパ夏時間に慣れてきたようで夜中の二時,三時にトイレに目覚めることもなくなった。それでも5時に目覚めたのでホテル付近を散歩することにした。気がつけばホテルはピサ中央駅のすぐ近くだったので駅舎に入ってみた。時間があったら個人旅行での鉄道の旅も,また,してみたいものだ。
ホテルの朝食はコンチネンタルではなくアメリカンスタイルだった。シャワールームの割には豪華な朝食だ。おもわずたらふく食べてしまった。
朝食後は7時30分にホテルを出発して371㎞先のローマを目指してバスは走った。ローマについて北イタリアをまわり,ふたたびローマに戻っていくわけだ。途中のドライブインでたべたカプチーノのシェイクは旨かった。しかし,規則でバスの中ではアイスクリーム類,アルコール類,においのきつい食べ物は御法度なので,慌てて食べなければならなかった。
5時間のドライブでローマの街に入った。まずは昼食である。今日のメインメニューはラザニアだ。気温は25℃を越してきて,低い湿度のために喉が渇いていたのでビールが旨かった。このレストランでは先にサラダが出てきた。
食後に入ったトイレにはびっくり。なんと便器に便座がないのである。聞けば女性用のトイレも同様であったという。この後のイタリア旅行ではこのような便座のない便器にしばしば出会うことになった。イタリアではこのようなトイレは珍しくないそうだが…
昼食後はサンタンジェロ城を車窓観光で見て,徒歩でバチカン市国の国境を跨いだ。サン・ピエトロ寺院の見学の列に並んだが,ここでもそれほど待つことなく入場できた。スイス衛兵の守りは別として,ここでも職員による厳重な持ち物チェックがあった。
ドームからは眩い光が差し込み,下の大天蓋に覆われた教皇の祭壇を照らしている。寺院内にはさまざまな彫刻,装飾品があるが,すでにいろいろな大聖堂を回り見てきているのでちょっと食傷気味だ。それでも,壮大さと荘厳さは十分に体感してきた。
大聖堂に入って右奥のミケランジェロのピエタをちらっと眺めると人盛りがしていた。後で空いたときに回ろうと思っていたら,見忘れてしまった。残念だ。ウェブで探した画像で我慢するしかないか。バチカン美術館はコースに入ってないのでシスティーナ礼拝堂のミケランジェロの最後の審判も見ずじまいになった。
バスに乗り,市内の歴史地区の車窓観光をする。コロッセオ,フォロ・ロマーノ,カラカラ浴場などなどの説明を聞くだけで,あっという間もなく通り過ぎていく。
そうして到着したのは,「ローマの休日」でもでてきたトレビの泉だ。この泉にコインを後ろ向きで投げると,一枚では再度ローマの訪問,二枚では現在の二人の中の幸福を,三枚では今の仲を解消させて新たなカップルでの幸福が実現できるという。カミさんが財布から5円玉を4枚取り出して,二人でそれぞれ二枚ずつ投げた。本当に二枚で良かったんだろうか? このコインはユニセフに寄付されるのだそうだ。お参りのあとは,ジェラートだ。とくに旨いというほどでもなかったが…
お後は,これまた「ローマの休日」でオードリー・ヘップバーンがジェラートを食べたスペイン広場である。でも,今はここでは飲食禁止だとか。石段には大勢が座り込んでいる。休んでいるのだろうか,ローマを堪能しているのであろうか? 上から見下ろすとすごい人出である。
人いきれと暑さで疲れた体を休める場所は,なんと三越ローマ店であった。40分も自由時間をとらされたが,買ったのは自宅用の木製のピノキオ人形と4人の孫への皮のピノキオ人形のストラップだけだった。あとは自販機のドリンクとトイレを利用しただけだった。この時間をもっと別に使えたら良かったのだが。カミさんも自分も,相変わらず,ほかの免税品には興味がないのだ。見所がいっぱいのローマを半日とはまったく惜しい気がするが,この三越でのショッピングタイムも仕方ないか。トレビの泉ではコイン一枚投げた方が良かったか?
慌ただしくローマ見物を終えて,バスはローマの南に出来た新たな街であるEUR地域を通ってバスはローマ郊外のポメッイアに向かった。ホテル「パレス」には7時前に到着した。部屋は綺麗でトリプルベッドを備えた広々としていた。夕食はハーフの白ワインを「ヴィーノ ブランコ ピッコロ,ペル フォヴァーレ」てな調子で注文して,カルボナーラのパスタ,フィットチーネを楽しんだ。日本にくるイタリア人は,某食品会社のカルボナーラのパスタソースのパウチを大量に買っていくそうだ。パスタを常食にしているイタリア人にとっても日本の件のパスタソースは敵わないとか。しかし,日本のパスタそのものはイタリアにはとうてい敵わないだろうな。
六日目(2011年4月3日,日)
今日からの日程は南イタリアを訪ねる旅だ。230km離れたナポリへ向かうために五時半起床,六時半出発と早立ちだ。朝食はパンとジュースの紙袋が前夜に渡されていたが,カミさんは口には合わないらしくパスした。その代わり,途中のドライブインではサンドイッチ(パニーニ)とカプチーノを食べた。これがボリューム満点でハムもチーズも美味かった。たいていのイタリア人はエスプレッソコーヒーかクロワッサン1個が朝食だそうだ。
日曜日の高速道路を南下していくと山の上にモンテ・カッシーノ修道院が見えてくる。ベネディクト派の聖地であるが,第二次世界大戦のイタリヤでの激戦となったモンテ・カッシーノの戦いの場としても有名だそうだ。さらに走るとアッピア街道の松並木が見えてきた。自分にはローマオリンピックのマラソンでここを裸足でひた走り優勝したアベベを思い出させる。これまでと違って高速道路を走る大型トラックが少ない。イタリヤでは生鮮食品を運ぶトラックなど許可されたトラック以外は日曜日は高速道路を走れないという規則があるという。地球温暖化対策なのだろうか。また,トラックの後ろには2つの制限速度を示すワッペンが貼ってあり,一つは荷物を積んでいる時の,もう一つは空荷のときのスピードを現している。
やがてバスはナポリの街に入った。イタリヤ名物の洗濯物干しは景観保護のために自粛させているそうだが,所々の路地の上にはシャツなどがはためいている。干し方も種類や,色を統一させるなど芸術センスが必要とされるとか。また,イタリヤではパンツに至るまで洗濯物にはピシッとアイロンがけをするそうで,洗濯が上手に出来ることがお嫁入りの条件とか。
歴史地区を車窓観光しながらバスはサンタ・ルチア地区に走る。カステル・ヌオヴォの凱旋門も離れた車窓から見るしかない。ウンベルト1世のガレリアもミラノに劣らずだ。遺構の一部をそのまま使って現在のバール(喫茶店)を開業している。
高級ホテルの建ち並ぶサンタ・ルチア地区でバスを降りてナポリの街並みや卵城を眺める。
バスに戻り,すぐ近くのナポリ港で降りてカプリ島へ渡る船を待つ。海のかなたにはヴェスヴィオ山が見える。港のすぐ後ろはカステル・ヌオヴォだ。カプリ島までは高速船で渡った。
カプリ島のマリーナ・グランデ港について,今日は青の洞窟に入場できると聞かされる。天候,潮の具合などで数10分の違いでも入れないことがあるそうだ。3回訪れて3回とも入れなかったというツアー客もいるそうだから,われわれはラッキーと言うべきだ。ここから小型ボートに乗り換え,さらに洞窟の入り口で手漕ぎボートに乗り代える。
ボートの船底に腰を下ろして寝そべるようにして洞窟に入っていく。と,そこは文字通りに青の洞窟だった。船頭さんの「オーソレミオ」に会わせて我々も大声で歌った。
カプリ島での昼食はパスタとポー料理だ。飲み物はカミさんは生オレンジジュース,自分は生レモンジュースをとった。爽やかな初夏を思わせる気候に爽やかなジュースの味を堪能した。
食後は再び高速船でナポリに戻り,319km離れたアルペロベッロに向かった。四時間半ほどでアルベロベッロのホテル「サンアントニオ」に着いたのは七時半を回っていた。ホテルは教会の一部を利用しており,バス付きではなかったがとても清潔な部屋だった。
荷物を置いて夕食のレストランに向かった。夕食のメニューはムール貝のフジッリのパスタと鶏肉だった。珍しいことにミネラルウォーターがサービスされた。今日は白ワインを注文した。
食後はライトアップされた幻想的なトゥルッリの家並みをそぞろ歩きと洒落た。ホテルに戻ったのは10時を回っていた。この旅行での初めての夜歩きであった。
七日目(2011年4月4日,月)
朝,目覚めてホテルの周りをぶらついてみる。戻ると食堂前の中庭で皆さんが談笑していた。遅めの8時のアメリカンスタイルの朝食でのチーズもハムも相変わらず旨かった。
9時にホテルを出てアルベロベッロ観光が始まった。この時間では観光客も少なく,単調な色合いが街の静けさを一層引き立てている。高台で全員の記念撮影をした。見下ろす光景はまるで箱庭のようだ。
建築中のトゥルッリを覗かせてもらう。石壁の厚さは2mにもなるという。その上に石版を載せてドームを築いていく。一部屋に一つのドームをつくるので,外からドームを数えれば部屋数がわかる。40℃にもなる夏の暑さでも内部はヒンヤリしているそうだ。
ショッピングタイムで入った店では日本語を話す夫人が相手をしてくれた。ここアルベロベッロは白川郷と姉妹都市で,彼女は使節として白川郷を訪れており,東京にも詳しかった。ショップの中には土笛の人形がいっぱいあった。中には数十万円の作品もあった。他の店ではトゥルッリのミニアチュアをお土産に作っていた。盆栽のようなトゥルッリはカミさんの関心を引いたが,持ち帰るには大きすぎるので断念した。
1時間の観光の後はバスで67km離れたマテーラに向かってアルベロベッロを後にした。 マテーラに着いてまずは昼食だ。今日も暑いので皆さんと一緒にビールを注文する。アンチパスタは生ハムだ。メインは貝殻状のコンキッリェのパスタだ。
昼食後は徒歩でマテーラの街を見て歩いた。青空に白石灰岩の山に築かれたサッシ(洞窟住居)が建ち並ぶ。岩窟教会の向こうに見える丘はメル・ギブソンの「パッション」の撮影ではゴルゴダの丘であり,サッシの前に続く階段はゴルゴダの丘への石段として撮影されたそうだ。現在は使われていないサッシもそこここにあるが,持ち主はちゃんといるそうだ。
サッシの入り口は通りに面した玄関だが,部屋は石灰岩をくりぬいて作っている。部屋が必要になればどんどん奥をくりぬいて作っていけるのだ。自由時間にサッシの小博物館を覗いてみた。中はけっこう広く,居住する部屋の他に家畜部屋,農具置き場,ワインセラーも設えてある。
マテーラ観光を終えて,バスで再び257km先のナポリに戻った。「ベスト・ウェスタン・プラザ」ホテルの前のゴミ置き場にはゴミを漁る人々が群がっていた。ナポリはイタリア第3の都市だが,不法滞在者の多さ,ゴミの多さ,そして治安の悪さで有名でもある。ホテルに入ってコンダクターは,早朝のナポリ中央駅には行くなとか外出にはパスポートも財布も何も持って出るな,などと注意を促した。レセプションには頭を剃り上げた係がいたり,部屋の鍵がなかなか開かなかったり,小銭への両替を断られたりとどうも印象の良くないホテルであった。ホテルでの夕食はボンゴーレのリゾット,魚料理が出た。リゾットは驚くほどにアルデンテであった。日本流に言えば,芯があってとてもじゃなきゃぁ食えない。おまけにボンゴーレもシジミと紛うほどの小ささである。細かく刻んであるのだろうか? でも,自分は,こんなもんじゃろ,気にしない。だいぶ,イタリヤに慣れてきたのだろうか?
八日目(2011年4月5日,火)
今日はアマルフィ観光だ。明後日は飛行機に乗るだけの日程なので,イタリヤ観光は今日が実質の最終日だ。のんびりと朝食をとって,9時にバスに乗り込み73km先のアマルフィに,コンダクターの「アンディアーモ(行きましょう)」のかけ声で,出発した。コンダクターの口癖のもう一つは「マンマ ミィア(なんてこった)」だ。ヴェスヴィオ山は海の向こうに煙っている。車窓からはソレント半島が綺麗に見える。
バスはポタジーノの展望台で止まり,アマルフィ海岸の景観を眺める。角砂糖を並べたようなポタジーノの街並みはまさに箱庭の風景だ。さすがはイタリヤ屈指のリゾート地である。
展望台には露店が軒を並べてドライトマトやパスタの薬味が安く売っている。なんとこんなところでも日本語が通ずる。お土産に買ったドライトマトの袋の裏には日本語の説明も入っている。
トイレタイムはホテルが経営する陶器店のバールだ。キャフェ マッキャアト(ミルク入りエスプレッソ)を注文してトイレを借りる。
アマルフィの街への入り口はポルタ デッラ マリーナ(海への入り口)だ。
街に入ったら昼食だ。まずはビールで喉を潤す。今日のピッツァは焼きたてのアツアツのマルゲリータだ。もう一杯ビールが欲しかったが,午後の観光があるので止めにしておいた。
午後はフリータイムだったのでカミさんとドゥオモを見ることにした。ここにはイエスの第1の弟子アンドレイの頭骨が祀られている墓がある。東洋人の結婚式があったようだ。「ジャポネーゼ?」と聞いたら,そう,だと答えた。どうぞお幸せに。
ドォウモ内部はイスラム的な雰囲気だ。博物館にもなっていて,いろいろな宝物が陳列されている。聖アンドレイの墓も立派だった。主祭壇はここも荘厳としか言いようがない。
大理石のモザイク模様も素晴らしい。
観覧を終えて,アマルフィの街中を散策した。
2時にバスに乗り,290km先の,五日目に泊まったポメツィアのパレスホテルに向かった。ホテルでの夕食はパスタと豚肉料理だった。イタリヤ旅行の最後の晩餐を白ワインで味わった。
九日目(2011年4月6日,水)
ホテルでの簡単なコンチネンタルスタイルの朝食のあと,近所を散歩した。ホテルの周りは工場があるくらいで他に見る物はなかった。日本のような藤の花が咲いていたくらいだ。
11時にホテルをチェックアウトしてローマ空港に向かった。ローマ・フィウミチーノ空港は「湿地の近く」という意味だそうだ。別名はレオナルド・ダ・ヴィンチ空港だ。ここで9日間もバスを運転してくれたエンツォに別れの挨拶をして空港内に入った。チェックインを済ませた後は空港内でたっぷりと時間があったので,ピッツァを食べた。厚みのあるパンのようなピッツァだった。
お土産屋を覗くがこれといった物はなかったので,モノレールで搭乗口へ向かった。ここでもお土産店をぶらぶらと覗きながら時間を潰した。やがて,搭乗案内があり15時10分のAZ-784便に乗った。やがて出された機内食を食べた後は映画を見たり,本を読んだりして退屈な13時間ほどを過ごした。
十日目(2011年4月7日,木)
日本時間の10時に飛行機は関西国際空港に降り立った。ここでクルーが交代したが,搭乗客は機内で待機させられた。どうやら,成田空港がTepcoの放射性物質で汚染されているとの危惧からであろう。結局,12時30分に成田国際空港に降り立つことが出来た。10日間の長い時間をともに過ごしたコンダクターの松本嬢やツアーの皆さんに別れを告げて,イタリア旅行が終わった。カミさんと使ったユーロは500ユーロほどで,ワイン,ビール,ミネラルウォーターの飲み代,クッキー,パスタ,チョコレートなどの食品のお土産代だ。重いワインもブランド物もパスして買わなかった。