2021年7月30日〜8月3日にかけて,東京オリンピック2020(+1 !?)とコロナ禍の喧騒を逃れて,出羽三山詣の旅に出た。我々は7月4日にCOVID-19ワクチンの2回目接種を終えているがマスク,手洗い,3密回避をしながら慎重に行動することにしよう。2015年の熊野三山詣に続けての生れ代わりの旅だ。
当初この旅は昨年の9月に予定していた。だが,出発の直前に自転車のトレーニング中にクルマとの接触転倒事故に遭ってしまった。頚椎2個を骨折し9日間の入院と2ヶ月の首カラー装着で身動きが取れなくなってしまった。ようやく自転車ライフも復活できた今年になって7月14日に再度の計画を立ててキャンプ場の予約をした。しかし,COVID-19の蔓延と天候不順でまたしても計画の実行を断念した。今回は是非とも3度目の正直,怪我からの生れ代わりの旅となって欲しい。
2021年7月30日(月山あさひサンチュアパーク)
早朝6時20分に自宅を発ち,常磐道→磐越道→東北中央道→山形道と走って11時50分に月山道路(R112)の道の駅月山に到着した。手打ちそば処「大梵字」で蕎麦の昼食をとった。季節限定メニューの種々の薬味を載せて食べる蕎麦,豚冷シャブ,地産野菜のてんぷら,そして山葡萄のムースなど盛りだくさんの品々に舌鼓を打った。
大梵字での蕎麦 –
道の駅の月山あさひ博物村の文化創造館ゆどのみち「六十里越番所」を訪ねた。この旅では庄内地方(鶴岡)と内陸(山形)を結ぶ1200年前から開かれていた出羽の古道「六十里越街道」を歩く予定も入れている。その情報を求めに館に入った。パンフレットや地図を入手して巡礼スタイルのマネキンとツーショットだ。
国道112号を挟んだ「山ぶどう研究所」に行ってみた。ここは月山ワインの製造・貯蔵をするワイナリーだ。赤と白のハーフボトルを買った。
ワイナリー隣の梵字の蔵はボルダリングが体験できるようになっていた。これらの施設の裏手は涼やかな梵字川渓谷の流れになっていた。
宿泊地のキャンプ場は来た道をもどったところだ。午後1時になったので,予約しておいた湯殿山スキー場の月山あさひサンチュアパークにチェックインしてキャンプを張った。テント設営は2018年の北海道旅行以来だったのでフライの張り方を忘れていて二人してあれやこれやと少なからぬ時間を費やした。さらに,カーサイドタープを張るときに吸盤部分のネジを紛失してしまい,苦労してそこいらをうろついて探す羽目になった。あれやこれやで2時間ほどの時間を費やした。設営が済んで周りを見渡してみると,我々のほかには2家族しかいないガラ空き状態のキャンプ場だった。
ベースキャンプの設営を終えて,道の駅にしかわに月山ビールを求めにでかけた。道の駅月山で尋ねたら,地ビールの月山ビールはこの道の駅にしかわでしか求められないと知らされた。道の駅は温泉も設えていたので,買い物ついでに自宅からの道中の汗を流した。
キャンプサイトに戻ってきての夕食だ。月山ビールはミュンヒナーとピルスナーがあったが我々は黒ビール風のミュンヒナーをことのほか気に入ってしまった。帰りには再び買って帰るつもりだ。ビールと一緒に買ってきた牛肉コロッケは思いがけず美味で,アルコールのメートルも上がりっぱなしだ。月山ワインの白の「豊穣神話」も試したが特にどうというほどのワインではなかった。このキャンプ場の標高は550mほどであるがけっこう涼しくて(25°Cくらい)過ごしやすそうだ。明日の月山登山の無事を祈って寝袋にもぐりこんだ。
月山ビール –
2021年7月31日(月山)
6時45分にキャンプ場を発って月山八合目バス停の駐車場を目指した。羽黒山の新道を走っていくとカーナビが脇道に入るルートを示した。しかし,すぐに橋の工事で通行止めになってしまった。カミさんがスマホを取り出してルートを探す。すると,そのまま新しい路を行けば良いとわかった。どうやらカーナビの地図が古くて新しい道の先が情報に入ってないようだ。暫く進むと月山八合目へは右折せよと示す道標が見つかった。狭くなった登坂路を進むことになったが前後に登っていくクルマはなく,降りてくるクルマも数台しか出会わなかった。8時過ぎにようやくのことに月山八合目の駐車場に到着した。すでにたくさんのクルマが止まっており登山者が支度をしている場面に出会う。我々も身支度をしてバイオトイレで用を済ませ,入山届を書いて登山路入口に向かう。弥陀ヶ原湿原に外来植物の種を持ち込まぬようにマットで靴裏を擦って,いざ月山山頂へ。
登山路はすぐに弥陀ヶ原の高層湿原の案内板に導く。我々は足慣らしを兼ねて,すこし遠回りの,左手の御田原参籠所を経由するコースをとった。花のシーズンは遅いと思ったがコバギボウシ,ハクサンフウロ,キンコウカ,ハクサンイチゲなどが咲いていた。
様々なパターンの池塘も見飽きることはない。
弥陀ヶ原 –
弥陀ヶ原湿原の散策木道を35分かけて周遊して,いよいよ月山登山の本道に分け入った。石をきれいに畳のように敷き詰めた無量坂を登っていく。振り返ると,小さくはなっているが,まだ雪渓が残っている。大きな石がゴロゴロしている急登の鍋割あたりは周りの背が高い草木で風通しが良くない。汗がダクダクを吹き出してきつくなる。再び振り返れば壮大な弥陀ヶ原湿原が一望できた。が,まだまだこの上りは続くはずだ。目指す仏生池小屋はまだ見えない。
ようやくのことに弥陀ヶ原の本道分岐から1時間30分かけて仏生池小屋に到着した。ここが月山九合目あたりのようだ。ここまででおよそ半分の行程をこなしたはずだ。小屋の「ソフトクリームあります」の看板には抵抗できずに,思いがけなく冷たいものを胃の腑に落とし込むことができた。カミさんも自分もこれで生き返った。
ソフトクリームで元気玉を注入してオモワシ山を巻いて行者返,モックラ坂に出ると涼風の吹く尾根道となった。右手を見上げれば,コバイケイソウが咲く向こうにに月山神社が見える。12時も過ぎてお腹も空いた。そのあたりの路端でランチをとってから神社に参拝することにした。イワカガミが「ようこそ」とむかえてくれた。
月山山頂 –
お腹もいっぱいになって月山神社に参拝した。月山は過去の世を表す山と言われている。月山神社に祀られる月読命に死後の安楽と往生を願おうと神社の山門をくぐった。入り口で神主さんのお祓いを受ける。渡された紙の人形で身を拭って穢れを払い,息を吹きかけて手水に流した。残念ながらこの聖域内は撮影禁止だ。
月山神社 –
月山神社の参拝を済ませてもとの路をもどる途中の月山山頂の三角点に立ち寄った。これで念願の百名山の月山(1984m)の山頂を極めた事になる。今回の山行はガイドブックの標準タイムで歩いたものの,カミさんともども,自らの体力低下を実感させられた。下山路の仏生池小屋を過ぎてからの道程がことのほか長く感じられて,まだかまだかと気ばかりがせいた。しかし月山八合目駐車場に降り立ってみれば「天候に恵まれていい登山だった」との良い記憶だけが残っていた。この登山のために2ヶ月ほど前から早朝の5kmのジョギングを始めた。数年前からのマシン筋トレに加えてこのジョギングのトレーニングがなかったらこの山行は実現できなかったかもしれない。それにしても肩にかかるリュックの重さには閉口した。日帰りの荷物しか持たなかったが肩が痛くなった。次回は,少し大きくなるが,腰ベルトのしっかりした方のリュックにしよう。
月山登山で精神は拭われたが汗みどろになったカラダをなんとか拭いたいとカミさんがスマホで月の沢温泉を探し当てる。行ってみると,ちょうど17時で湯終いとなっていて入湯することは叶わなかった。次に探し当てたのはくしびき(櫛引)温泉だ。鉄分を含んだ源泉かけ流しの湯で疲れたカラダ労った。登山中に帽子,長袖,長ズボンで直射日光から肌を守ったものの手袋をしなかったので手背が日焼けして温泉に浸かるとひどく沁みたのには閉口した。
キャンプ場に戻り,暮れなずむ夕日の中で夕食をとった。今日の月山ビールはピルスナーだ。しかし,軽すぎて豊穣な味のミュンヒナーには及ばない。いい気分になったところではたと気がつくと,なんと,スマホが見つからない。ポシェットを探してみてもリュックをひっくり返してみても出てこないではないか。アップルウォッチの表示をみても近くにはiPhoneがないことを示している。カミさんのスマホで呼び出してもらっても反応が帰ってこない。ヤバイ。最後にiPhoneを扱ったのは月山八合目で入山届を書いたときに,携帯番号を確認するときにポシェットから取り出したのを記憶している。あのときにベンチに置き忘れたのだ。カミさんに事情を説明して,明日の朝に再び月山八合目に行ってみるしかないことを覚悟した。トホホホホ…。こんなにもきれいな夕焼けだっていうのに。
2021年8月1日(羽黒山・鶴岡市)
夜半に降り出した雨は朝まで続いていた。スマホを紛失したブルーの気分に追い打ちをかけるような雨だった。朝食を終えて洗面所で顔を洗ってテントに戻る途中なんの気無しにポシェットを探ってみたら,なんとなんと,細かく区分けしたキャッシュの一つにキチンと収まった電池切れのiPhoneを見つけた。ユリ〜〜イカ,やったぜ。カミさんにうれしい報告をしてようやく安堵できた。きょうびのスマホは昔の携帯電話とちがって自分自身の情報がいっぱい詰めてあるので,みつからなかったら自宅に帰ってiPhoneをシャットアウトする手続きをしなければならないところだった。新たなiPhoneを買う費用よりも危険で大きな出費になるところだった。やれ,やれ。
さて,雨模様の上に昨日の月山登山の疲れも残っている。今日の予定であった六十里越街道の6時間の散策と湯殿山神社参拝は取りやめることにしよう。明日の予定であった羽黒山と鶴岡市立加茂水族館めぐりと交代だ。ということでクルマで羽黒山の随神門前駐車場に向かった。駐車場に到着した時刻(8時45分)には雨が上がったのも神社のご利益か。
羽黒山に参拝するには嫌になるほどの2,446段もの石段を歩かなければならない。足拵えは万全だが,滑らぬように苔むした石段をまずは下っていく。滝を見ながらの橋を渡った先から本格的な上りが始まった。すぐに樹齢千年をこえるという爺杉が現れた。婆杉は1902年の暴風で倒れたという。その先には平将門が創建し,600年前に再建された国宝の五重塔だ。高さは29mとある。それをじっくりと見物してさらに淡々と石段を登り出羽神社の三神合祭殿を目指す。
羽黒山五重塔 –
二の坂の脇に茶店があった。カミさんが「寄っていこう」というからには疲れているのだろう。冷たい麦茶でのどを潤し,抹茶と力餅を食べながら外界を眺める。茶店の人に聞けば,まだこの先には最後の三の坂があるという。
三の坂を登ったところが齋館(さいかん)だ。かつては地蔵院という寺だったが,明治の神仏分離令で神社の施設として残った。現在は山伏修行の祈祷の場,精進料理どころ,宿泊施設などで利用されている。その先に鳥居がみえた。どうやら羽黒山山頂は指呼の間のようだ。
広々とした羽黒山頂(標高414m)の出羽(いでは)神社の三神合祭殿に出た。随神門から,茶屋での一休みを入れて,1時間15分かかっていた。出羽神社に月山神社,湯殿山神社を合わせた宗教法人の登録名が出羽三山神社とのこと。ここ羽黒山の三神合祭殿はかつての寂光寺大金堂で,明治時代の神仏分離令で神社となった。羽黒神社と呼べば分かりやすかったろうに,と思うのは自分だけか? 三神合祭殿に参拝すれば出羽三山にお参りしたのと同等のご利益があるとされている。羽黒山は人々の現世利益を叶える現在の世を表す山だという。参拝の後は少し離れた駐車場に向かい羽黒山頂バス停からのバスを待って随神門駐車場に向かった。雨上がりで苔むした石段で滑って転んで怪我でもしたらこの後の予定の湯殿山神社への参拝もどうなるかわからない,との安全策だ。バスは,あっけなく,15分で駐車場に着いた。
出羽三山神社 –
鶴岡市立加茂水族館でお目当てのクラゲを鑑賞するために鶴岡市に向かった。カミさんの「魚を食べたい」との希望で探した食事処も日曜日の混雑にあえなく没になった。で,みつけたお馴染みの蔵寿司でお昼を食べ,その間を利用してコインランドリーで洗濯も済ませた。
加茂水族館のウリはクラゲの展示だ。何年か前の鳥羽水族館,数ヶ月前の大洗水族館のクラゲ展示よりもすごいのかが楽しみだった。なるほどたくさんのクラゲだ。幻想的にも思えるクラゲの乱舞にこれまでの疲れも癒やされたような気分だ。クラゲのほかに怪獣の愛くるしい姿にも癒やされた。
加茂水族館 –
羽黒山登山の汗を流そうとやまぶし温泉に立ち寄った。浴場の螺旋階段を登ると階上にもサウナ,寝湯などの浴場があった。
キャンプ場にもどる手前で月山道路(R112)を脇に入り,六十里越街道散策の起点に予定していた田麦俣口の旧遠藤家住宅(多層民家)を尋ねた。物置(ロフト)層と養蚕作業場層をいれての茅葺きの4層民家は明治10年代の姿に復元されている。創建は江戸時代後期(文化文政)らしい。この民家は飛騨高山の合掌造りの民家を思わせるが,屋根は兜造りというらしい。この多層民家のすぐ近くには,同じく茅葺きの,民宿もあった。
2021年8月2日(六十里越街道・湯殿山神社・銀山温泉)
これまでの登山で溜まった疲れと次の予定地への移動時間を考慮して,六十里越街道はその一部を散策することにした。つい先日のNHK BSで再放映された「古道でたどる出羽三山の旅」での二人の女子旅人はこの街道を歩きながら出羽三山を訪れていた。若い彼女らの山行は我々よりもかなり大変な旅のようだった。我々の散策路は湯殿山有料道路の入り口にクルマをデポして細越峠をピストンするコースだ。六十里越街道の旗を目印に小道に踏み入り有料道路を2回越えて,分岐点で湯殿山参道を右に分けてさらに有料道路を渡る。急坂を下ると大きな湯殿山の石碑に出会った。ここが六十里越街道の本道だ。
六十里越街道の鶴岡方面の先には梵字川を渡す一本橋跡で今では鉄骨の橋が架かっている。寺跡を過ぎると,役に立ったかどうかは知らないが,戊辰戦争時の砲台跡だ。やがて,何本かの柄杓が吊るされてたいーっぱい清水のせせらぎだ。
さらに先に進むとブナの大木に刻まれた昭和初期の伝言が何本か続けてあった。さぞかし雪が深かったのだろう,伝言がかなり高いところに彫られているブナもあった。
街道からすこし脇に入ると湯殿山神社の大鳥居が望める遙拝所があった。雪で参拝できないようなときはここから湯殿山神社を拝んで戻ったとある。
有料道路入り口から歩き始めること1時間20分で細越峠に到着した。バイオトイレやスタンプ台が設えてあった。一休みしてエネルギーを補給した。
ここからUターンして帰路のコースをとった。が,一本橋跡からショートカットしたところで道を迷い,同じところを堂々巡りする羽目にあった。自分なりのコースを行くと来たこともない六十里越街道の山形方面への八紘沢に出くわした。もとの分岐に戻りカミさんのいうコースをいくと再びもとに戻ってしまった。分岐を無理に分け入って踏みもないヤブに入ってしまって戻らざるを得なくなったりもした。4度目の正直(?)で新たなコースに分け入ってみると,ふたりとも確かに見覚えのある往路の光景に出会った。ようやくのことで駐車場に着いてクルマで湯殿山神社に向かうことができた。「こうやって山で迷子になり,堂々巡りをして遭難するんだね」とカミさんが自戒する。
帰宅してから昭文社の地図をみると,小さくはあるが,この迷子で歩いたコースがちゃんと示されていた。なるほど,NHKのグレートトラバースで田中陽希が利用するわけである。この地図は持参していたが,二人の往路の記憶に頼って歩くのを優先し,開いて見ることはしなかった。開いたとしてもパニック気味の状態でちゃんと読図してルートファインディングすることはできなかったろう。(下図の踏破地図のループ部分が迷子になったコース)
あらためてクルマで湯殿山有料道路を登って湯殿山神社に向かった。仙人沢駐車場からバスで参道を登った。奥の院は聖地ということで,月山神社と同様に,撮影禁止であった。参拝するには靴を脱いで裸足になって,神主さんにお祓いをしてもらう。月山神社と同じように紙の人形でカラダを拭い,人形に息を吹きかけて水(湯水?)に流してから参拝する。ここには社殿は無く,御神体として祀られているのは湯の湧き出す巨岩であった。その上を裸足で歩き大地の熱いエネルギーをカラダの中に受け止めた。湯殿山は未来の世を表す山だという。湯殿山の参拝でめでたく出羽三山を詣でた事になり,生まれ代わりの旅も完成したことになった。
バスで仙人沢駐車場にもどり,湯殿山参籠所で麦切りとミニ天丼の定食を食べた。麦切りとはこの地方では細い饂飩のことをそう呼ぶのだそうだ。
この旅の最後の宿をカミさんのたっての希望である尾花沢市の銀山温泉にとった。道の駅にしかわで月山ビールとお土産を買ってから尾花沢に向かった。「銀山温泉はかつて江戸時代初期の大銀山として栄えた延沢銀山に由来している。大正末期から昭和初期に建てられた洋風木造多層の旅館が川の両側に沿って軒をならべ昔ながらの独特な景観が味わえる」とはパンフレットの宣伝文句である。1456〜1689年まで銀が採掘され,1741年ころには温泉地としてさかんになったそうだ。旅館の中には,現代風な,隈研吾の設計によるホテルもある。きょうび,あちこちで隈さんの建物が,例の国立競技場を含めて,人気を博しているようだがねぇ…。我々がとった宿は古勢起屋別館だ。本館の銀山荘の露天風呂につかって汗を流した後は別館に戻りウェルカムドリンクサービスのビールとワインをきこしめした。ニジマスが泳ぐ銀山川の橋の上で飲む昼間のビールは格別であった。出羽三詣でを果たした二人は酩酊してすっかりいい気分に浸った。
夕食は先付けの旬彩から始まり蔵王サーモンのカルパッチョ,お造り・椀物,山形和牛,鰈の青朴葉焼き,山菜そばはっとなどなど郷土色満載のとても美味しいものだった。満腹になったお腹を抱えて旅館の外で銀山温泉の夜景を楽しんだ。この温泉の宿の素晴らしいホスピタリティーと食事で大正浪漫の気分を味わい3日間の登山での疲れを十分に癒した。
銀山温泉 –
2021年8月3日(河北町・寒河江市)
昨晩はしこたま飲んだものの二日酔にもならず,いつものように夜明けとともに目覚めた。それで銀山川上流の銀鉱洞を散策することにした。滝を眺めながら遡上して着いたおもかげ園から銀鉱洞に入った。かなり広く涼しい鉱洞にいつまでもいたい気分だった。
小一時間の散策で部屋に戻り,もう一度,本館の露天風呂で朝湯をつかった。お楽しみの朝食の庄内米は美味かった。これで納豆を食べてみたかった。
のんびりと帰り支度をして,600m離れた駐車場まで宿のクルマで送ってもらう間にコンシェルジュにツーショットを撮ってもらう。旅の最後を飾るに相応しいショットでしょ。
帰路の途上では河北町の紅花資料館に立ち寄った。上皇・上皇后さまも立ち寄ったという資料館はかつての江戸時代の富豪だった堀米四郎兵衛の屋敷跡だ。武者蔵や,特に座敷蔵は見ごたえがあった。
紅の館では紅花から,花笠音頭でお馴染みの花笠を飾る,紅餅をつくる工程の説明や紅花で染めた衣服などの展示を鑑賞した。紅花を発酵・乾燥させた紅餅には大いに興味が湧いた。
さらに高速道路に入る前に寒河江市の慈恩寺にも立ち寄った。宿で「今年5月にオープンした慈恩寺テラスに立ち寄ったら良い」と教えられていたのでテラスで慈恩寺の予備知識を仕入れた。開山約1300年の歴史を持ち,法相宗にはじまり天台宗,真言宗,修験道,時宗,禅宗などの多様な宗派が入り混じっていた。1972年からは慈恩宗大本山慈恩寺となっている。ここは葬儀をおこなう寺ではなく法会・国家安泰・除災招福を祈願する祈りの寺ということだ。
まずはちょっと外れたところの三重塔をみてから山門をくぐる。ついで本堂に参拝して内部を見学した。この寺は平安から鎌倉時代の仏像の傑作が数多く残されているというが,いくつかの像は貸出中なのか写真のみが展示されていた。カミさんは「数年前に東京国立博物館でのみちのく仏像展で見たかもしれない」という。帰宅してネットサーフィンしてみると,確かに,2015年の特別展にここの十二神将のうちの4体が出展されていた。さいわいにも本堂隣りの薬師堂に安置されていた十二神将像はすべて見ることができた。よくみれば薄っすらと彩色が残っている。しかし,慈恩寺テラスのスライドショーでみたイメージとは異なって小さな木造で少しガッカリ。さらに残念なことには本堂,薬師堂の内部はすべて撮影禁止であった。
慈恩寺 –
薬師堂を案内してくれた人の言葉で鐘を突いた。家内安全,健康祈願,世界平和を祈りながら3回突いた。慈恩寺テラスにもどり蕎麦と竹輪のカレー揚げミニ丼のランチをとった。蕎麦はゴムのような弾力で美味くはなく竹輪の天ぷらも今ひとつの味だった。
高速走行の途上で眠気が出てきてカミさんに運転を交代してもらった。この日の山形の気温は35°Cを上回る酷暑であった。出羽三山詣の旅は夫婦にとって新たな旅立ちとなりそうだ。次は信越トレイルを歩こうと,早くも,計画中だ。