世界文化遺産に登録(2004年)されている紀伊山地の霊場と参詣道を訪ねた。熊野古道中辺路(なかへち)を歩いて熊野本宮大社・熊野速玉大社・熊野那智大社の熊野三山を巡る旅だ。大自然の深山で神道と仏教の神仏混交の霊場を目指して,生きながら浄土に生まれ変わる(蘇る,よみがえる,黄泉から帰る)旅をカミさんと共に目指した。
2015年5月28日(木)
池袋を5月28日,20時40分の高速バスにのって紀伊田辺駅に向かった。高速バスは三列シートでトイレ付きだが,何といっても脚を伸ばせないのがチョットきつかった。
2015年5月29日(金)
カミさんと違って眠りこんだので途中の経路は判らないが,翌5月29日の5時30分に阪和自動車道の紀の川SAに着いて目覚めた。自分にとっては初めて訪れる和歌山県だ。
紀伊田辺駅の駅に降り立ったのは予定通りの7時15分だった。早朝ということもあってか駅前は寂しい。駅舎横のベーカリーが開いていたので朝食をとった。
8時ちょうどの路線バスに乗りR311の滝尻(たきじり)バス停に8時47分に到着した。ここから世界遺産の熊野古道が始まるのだ。道路を渡った熊野古道館に立ち寄ろうと横断歩道を渡っているときにトンネルを抜けてダンプカーが猛然と走ってきた。カミさんは慌てて横断したが自分は立ち止まってやり過ごし,とても危険な状態を回避した。ダンプカーの運転手は罵詈雑言を浴びせて走り去った。神仏のまします世界遺産のこの地の旅の最初にとても悲しい体験をした。どうぞ,あの運転手には神罰が下りませんように。今年は和歌山国体も開催されるというが,こんな調子で大丈夫だろうか?
熊野古道館をざっとみたが,ここで熊野古道めぐり地図帳をゲットしておけば良かったと,後で気付いた。
滝尻王子に建つ世界遺産の碑を見て,9時15分にいよいよ熊野古道中辺路(なかへち)に一歩を踏み出した。滝尻王子は熊野九十九王子の一つでここから熊の本宮までに19の王子が点在している。王子とは熊野を参詣した上皇,女院,公卿をはじめとする参詣人の休息所・遥拝所となったところで,熊野古道にはたくさんの(九十九と表す)王子があったという。
滝尻王子からは直ぐに岩だらけの急登が始まった。胎内くぐりや乳岩(藤原秀衡夫妻とその子の忠衡にまつわる逸話がある)を夜行バスの旅程での疲れの足取りで横目に眺めて上り詰めると不寝(ねず)王子に到着した。不寝のカミさんにとっては,ここまで20分だが,かなり疲れたようだ。
ガイドブックで熊野古道は楽に歩けるところじゃないと知っていたが,いやはや,かなり甘く見たねと寝不足のカミさんに付き合って一息ついた。
不寝王子から古道は緩やかになった。小さなアップダウンを繰り返して剣の山経塚から石畳の古道を歩くと針地蔵尊だ。
急登していくと樹木の間に建物が見えてきた。次なる王子に到着かと思ったらNHKの中継塔だった。古道で出会った文明の塔にちょっと拍子抜けした。
夫婦地蔵を過ぎる頃には古道の周りの景色が開けてきた。
集落の脇に建つのは高原熊野神社だ。周りには大楠が林立している。いよいよ熊野詣の雰囲気が強くなる。
神社の先には高原霧の里休憩所が設えてあった。ここからの眺めは絶景だった。彼方の新緑の山々を渡って爽やかな風が吹く中でここまで3.5kmの歩行での汗を拭った。休息所の自動販売機でドリンクを買い,お昼を摂ることにした。我々よりも1時間半ほど先に滝尻王子を出発した女性二人連れと話して判ったことは,今日の行程のまだ1/3ということだった。
エネルギー補給を済ませて民家の脇の新しく造られた石畳を急登していく。この辺りの民家は江戸時代までは旅籠だったそうだ。再び古道を行くと一里塚跡を過ぎて高原池に着いた。この水はどこから来るのかねぇ,とカミさんと話ながら通り過ぎる。
5.5km地点の大門王子に12時に着いた。碑と説明看板だけの王子のほかに,こんな社を設えた王子もある。
咲乱れるコアジサイを眺めながらアップダウンの古道を進むと十丈(重點)王子に着いた。
そこから少し進むと小判地蔵に出会う。1854年にここで小判をくわえたまま行き倒れた巡礼者を祀っている。
悪四郎屋敷跡を過ぎると下りが始まった。下ってそして急登すると上多和(うわだわ)茶屋跡に着いた。礎石も見当たらず,杉を何本か伐採した空き地があるだけだ。
ここを下って大坂本王子だ。
中辺路22番(滝尻王子から0.5kmごとに番号標識があるので22番は11km地点)でエネルギーを補給し,案内板が指す道の駅に向かった。時刻はまだ14時30分だ。
道の駅で明日の補給食を買い求め,レジの婦人と継桜王子で宿が取れず近露の民宿に泊まることなど,あれこれと話をした。そうすると婦人から「滝尻を9時に出てこの時間にここまで来れたということは,あなた方は健脚だから今日は小広王子くらいまでもっと歩いて明日の行程を楽にしたほうが良い」とサジェストされた。「私が荷物を民宿まで届けてあげるので,民宿に電話して小広まで迎えに来てもらったらどうか」とも言われた。民宿に電話してみると,あいにく迎えの都合がつかない,とのことだった。再び道の駅の婦人にその旨を話すと「では私が小広まで迎えに行くから,着いたら連絡してくれ」と言われた。その親切に甘えて,リュックサックを婦人に預けて身軽になって小広王子までの8.3キロを歩くことにした。
身軽になって足取りも軽く再び古道に戻って橋折峠に鎮座する牛馬童子像を目指す。ここは中辺路の近露(ちかつゆ)地区での名所となっている。行って見ると,あらまあ,牛馬童子像ってこんなにも可愛いものだったんだ,というくらい小さかった。童子像は花山法皇の姿を現しているともいわれる。隣の石仏は修験道の開祖の役ノ行者(えんのぎょうじゃ)像ということだ。
橋折峠から古道は舗装道路となり集落を抜けていく。周りの山々の緑が弱くなっていく陽射しを持ち支えている。やがて近露王子に到着した。トイレ,郵便局,パス亭,茶屋などがある集落の中心地のようになっていた。
歩を進めると日本人女性と外国人男性のカップルから近露王子はまだか,と問いかけられて暫し立ち話をする。世界遺産の熊野古道は外国人にも人気があるようだ。カップルと別れて先に進むと比曽原(ひそはら)王子だ。
集落を縫う舗装路の古道を進む。が,集落は明らかに寂れている。それを示すようなこんな道標もあった。それでも古道を歩く旅人を慰めるような優しさも用意されていた。
一里塚跡をすぎて伝馬所跡の碑が見えてきたら継桜(つぎざくら)王子だ。この王子には立派な社があった。境内には野中の一方杉という県の天然記念物があるというが,どうやら見落としたようだ。継桜王子には「とがの木茶屋」があったが誰もいなかった。スタートの滝尻王子を上がったところで出てきた乳岩の伝説の藤原秀衡がここでも登場する。その秀衡に因んだ秀衡桜が残っていた。王子からちょっと離れたトイレも立派できれいだ。さすがは世界遺産の熊野古道だ。
木工細工の人形に励まされ歩いていくとドリンクの個人販売所があった。ユーモラスな小便小僧が出す天然水で冷やされたドリンクの中から,自分は缶コーヒーをカミさんはお茶をゲットした。
中川王子は脇の山道を入ったところにあるらしい。せっかくだからと自分だけで山道を駆け上がって見に行くことに。例によって説明版と石碑だけの王子だ。
あと1.5キロで小広王子だ,と歩を進める。小広王子に着いのは17時を回ったところだった。2時間チョットで8.5キロを歩いたことになる。背中のリュックがないとこんなにも軽快に歩けるのだ。さきほどの道の駅の婦人に連絡を取ってみた。「これから迎えに行くので,そこの小広峠をおりてトンネルの出口のバス停で待っていてくれ」との返事を受けた。バス停で待つこと暫しで道の駅の婦人がリュックサックを積んだ車で迎えに来てくれた。
クルマで今夜の泊り宿の近露の民宿「なかの」までUターンして送っていただいた。ありがとうございます,ありがとうございます。この婦人の親切が,スタート地点での暴走ダンプカーからの罵詈雑言のイヤな気分を吹っ飛ばしてくれた。一日の終わりに熊野の人の優しさに触れることができた。この婦人には後日,写真と些細なお礼を送らせていただいた。電話での婦人からのお礼の言葉は柔らかな和歌山弁だった。それを聞いて,もう一度は熊野古道に来てくれと誘われたような気分を味わった。
民宿の洗濯機を借りて洗濯をする間に内湯で汗を流した。他の泊まり客は近くの温泉に行っているようだ。夕食の時間になって食堂に行ったら驚いた。さきほど近露王子の近くで立ち話をした日本人女性と外国人男性のカップルがいるではないか。男性はオーストラリア人とのことだ。話を聞くと,我々が宿を手配できなかったので諦めた小雲取越も歩いてきたそうだ。バスを乗り繋いで歩いているそうだ。他の客は息子さんに案内されて歩いている親子連れとこの宿の常連さんというアユの釣り人だ。
渇いた咽にビールはスイスイと染み込み,大瓶を一本ずつ空けてしまった。夕食の膳には宿の主人が釣ってきたアユの塩焼き,ジビエ料理の鹿肉の刺し身,鴨鍋,アマゴ唐揚げに山菜(イタドリ)が添えられていた。カミさんがアユを頭からかぶりついたので自分も習ってかぶりつく。ほろ苦いワタが疲れをいやしてくれるようだ。
明日の小広峠までのバスの時間を調べて心地よい酔い状態で床についた。今日の旅程は22.4km / 7時間57分(実働5時間33分)だった。
2015年5月30日(土)
5時に目が覚め,6時半に朝食を済ませた。泊まり客と宿の夫妻に別れと感謝を告げて柿平バス停を7時36分のバスに乗った。小広峠パス亭に降りたったのは8時前だった。さぁ,熊野古道二日目だ。
バス停から,古道に戻り先に進むと熊瀬川王子の休憩所に至った。その先の一里塚跡あたりの急登でカミさんの持病の膝痛がでてきてサポーターで補強した。
わらじ峠を下って林道に出会ったところに迂回路の標識があった。この先の古道の仲人茶屋跡や岩神王子には行けないという。平成23(2011)年の台風12号が紀伊半島に大雨をもたらし,熊野古道中辺路も土砂災害を被ったことによる迂回路なのだ。迂回路は本来の古道よりも500mほど長く,古道に合流するまで60分とあった。
暫くは平坦な林道を歩いたが,やがてアップダウンを何回となく繰り返すようになった。岩神峠への急坂を上り詰めると辺りの視界が開けた。この先のT字路で熊野古道の標識があったが,左右どちらに進むのか迷った。ここはカミさんの霊能力を信じて左に進んだ。こういうところの標識は矢印ではっきりと本宮方面を示して欲しい。
迂回路を歩くこと1時間半でようやく蛇形地蔵に着いた。大量の汗をかいたが立ち止まるとひんやりとしていて汗がスゥーっと引いていく。地蔵尊は蛇の文様がある岩盤を背負っているのでその名がつけられている。蛇形は古代の海藻の化石だそうだ。本来の古道はここまでに2つの峠を越すことになるようだが,いやはや,この迂回路も厳しいコースだった。
蛇形地蔵の直ぐ先で迂回路は本来の古道に合流した。川を渡り杉木立の古道を進むと湯川王子に行き着いた。
湯川王子で出会ったら中年夫妻にツーショットを撮ってもらった。
急登すること20分で三越(みこし)峠に着いた。ここにも立派なトイレがあった。峠の下道から上がってくる風が涼しい。気温は高いが風は爽やかなので助かった。
三越峠から階段を下りて古道を進むと,広々とした開けた場所に出た。台風12号で崩落した箇所を修復しているところのようだ。
先に進むと音無川に沿う林道を歩くことになった。やがて林道から古道への分岐点の案内板に出会った。お昼斎になっていたので,民宿で作ってもらったお弁当でお昼を摂ることにした。高菜で巻いためはり寿司が入っていた。竹の皮で包まれたオニギリはいかにも熊野古道のお弁当に相応しく感じた。食べているところに外国の若いカップルが通りかかったので,分岐点を教えてあげた。
お昼を食べ終えて,急坂を下りて行くと音無川に沿って進むと船玉神社があった。
船玉神社から音無川を渡ったら先ほどのカップルがお弁当を食べていた。その脇を過ぎて進んだ。が,このコースは熊野本宮大社をパスして湯の峰温泉にむかう赤木越コースということが分かり,船玉神社にもどって本来のコースである林道を進みさらに林道を分けたところに猪鼻王子があった。
再び林道に入り,林道を左に分けて古道を登り詰めると発心門(ほっしんもん)王子にたどり着いた。バス停があり駐車場もあるスポットで,ここ発心門王子と熊野本宮大社を結ぶ区間は中辺路の人気のハイライトコースということだ。
広い舗装道路から脇へ入り集落の中の生活道路ともなっているような舗装路をテクテクと歩いて水呑王子に至る。ここには明治9年からの三里小学校三越分校があったが,昭和48年に廃校になった。その後の廃校は観光施設に使われたが,それも今は廃業してしまった建物が残っていた。
先に進むと集落の周りに茶畑が目立つようになってきた。と,お茶屋が出てきたので足休めに立ち寄ることにした。メニューには栗ぜんざいは冬季とあるが,聞いて見ると,今日も冷やし栗ぜんざいは出来るという。なんと200円というビックリ価格だ。さらに女主人は自分のところのビワとキヨミを供してくれた。出掛けにはフルーツキャンデーを持たせてくれるというおもてなしを受けた。話を聞けば,この三里(みさと)地区は寒暖の差があり,時には膝まで隠れるほどの濃い朝霧に包まれる気候が良い茶葉にするという。インドのアッサム地方みたいだ。そして平均年齢70歳の住民はみな元気だという。かつてこの地はNHK朝ドラ(2001~2002年)「ほんまもん」のロケ地にもなったそうだ。そういえばそんな話題があったね,とカミさんと話す。が,我が家は朝のテレビを見る習慣がないので記憶は朧だ。
ここでも和歌山の人の優しいおもてなしに感謝,感謝であった。
茶畑の向こうに果無(はてなし)山脈が望める。その稜線には高野山と熊野本宮大社をむすぶ熊野古道の小辺路が通っている。次は小辺路を歩いてみたいね,とカミさんと話ながら歩く。
着いたところは伏拝王子だ。和泉式部が熊野本宮を伏し拝んだ王子だと伝えがあるそうだ。ここにも茶屋とトイレがあった。
緩やかな道を下ること20分で三軒茶屋跡がある九鬼ヶ口関所だ。ここに高野山を発した小辺路が合流していた。ウ〜〜ム,高野山からここに来るのは何時のことか。関所からの下り道を,何人もの外国人を追い越して,歩いていく。と,新たに造られた見晴台の案内板があった。降りてきた女人講を先導するほら貝をぶら下げた先達の女性に勧められて寄り道をする。
展望台には先ほど追い越した外国人の団体が,流暢な英語を話す山伏と一緒にいるではないか。どうやらここへの別の道があったらしい。展望台からは熊野川の辺に建つ大きな鳥居が見えた。あれがかつての熊野本宮があった大斎原(おおゆのはら)だ。ということは熊野本宮も直ぐ近くだ。
古道をどんどん下っていくと道の修復作業に出合った。そこを抜けるともう民家が建ち並ぶ本宮のある街並みだ。昔はここで旅の埃を払って(祓って)本宮に向かったという祓殿(はらいど)王子があった。
とうとう熊野本宮大社に着いた。21.1kmの道程をようやく熊野三山の一つにたどり着いた。もうすぐ16時になろうという時刻だから8時間20分掛かったことになる。まずは,日本サッカー協会でおなじみの三本足の八咫烏(やたからす)の幟や石碑のある拝殿にお参りした。そして神門をくぐり神殿に参拝した。左から第一,二,三,四殿と並んでいて,一番右に小さな満山社があった。左の第一殿から順番に参拝したが,神門を出て案内板を見ると三,二,一,四,満山社の順で参拝することになっていた。社殿は,伊勢神宮のように,彩色は施されていない。まことに地味な本宮であった。神門内は撮影禁止だったので,熊野本宮観光協会のホームページ(http://http://www.hongu.jp/)のイメージを載せた。
社務所の巫女さんに宿のある湯の峰温泉への古道(大日越)を聞いた。「これからあの大変な山越えですか」と驚かれた。とにかく宿に連絡を入れてみると16時45分のバスがあるという。カミさんと相談して大日越は止めてバスで湯の峰温泉まで行くことにした。158段の石段を,疲れた脚で,転げないように注意深く降りて参道入り口のバス停に来た。参道は,神様が中央を通るので参詣人は左端を登り,右端を降りるのが作法だそうだが,これもスルーしてしまった。
バス停の後ろには平成17年にオープンした世界遺産熊野本宮館(和歌山県世界遺産センター)があった。バスを待つ間にちょっと覗いてみた。熊野曼荼羅のコピーや山伏の人形をみて回った。
バス停でバスを待っていると,先ほど見晴らし台で女人講を案内していた先達の女性に再会した。彼女は大斎原の向こうに見える山を指して「あの山を越すコースが大日越です」と説明してくれた。やはり今日の歩程で疲れた脚ではムリだろうとカミさんと納得した。
バスに乗って湯の峰温泉に降りたった。伝説の小栗判官が浸かったというつぼ湯や野菜・卵を茹でる湯を横に見て民宿「やまね」に着いた。
源泉掛け流しの内湯に浸かって夕食の食堂に入ると,お昼を食べているところで出会った若い外国人カップルがいた。どうやら熊野古道は一期一会ではすませてくれないようだ。あのカップルは赤木越でここに到着したのだろうか。
まずはビールだ。夕食のメニューは,おつくり,トマトの生ハム巻き,アユの塩焼き,豚肉鍋,茶わん蒸し,野菜天ぷら,ニンジンソテーなどなど盛りだくさんだった。野菜はいずれも自家製のオーガニック野菜だと女将が自慢していた。外国人カップルにも英単語を並べ立ててテキパキト説明していく女将にチョット驚く。彼女には御堂筋辺りの豹柄の洋服が似合うおばちゃんのイメージを重ねてみた。
明日の補給食を見繕いに外出したが,コンビニは閉まっていた。公衆浴場脇の売店を覗き,ソフトクリームを買ってなめながら宿にもどった。今日も修行の古道だったね,とカミさんと話ながら早々に寝入った。
2015年5月31日(日)
6時に起きて7時半に朝食を摂りに食堂に降りるとすでに外国人カップルが居た。女性は日系人か韓国人のようだ。女将が温泉粥を二人に勧めると,二人とも食べた。カミさんが女性に日本語を話せるか,と問いかけて英語と日本語での会話が始まった。昨日は赤木越でここに着いて,今日は大日越で熊野本宮大社を訪問する,というようなことなどを話す。
朝食のメニューは,なんといっても,温泉粥だ。塩昆布を混ぜて食べるともっと美味しい,と女将が勧める。卵も温泉卵だった。さらに,食後の(インスタント)コーヒーも温泉コーヒーと温泉づくしだ。なにせ,ここ湯の峰温泉は日本最古の温泉というから。
当初の計画では湯ノ峰温泉から請川に回り,そこから小雲取越を歩いて小口に泊まり,翌日は大雲取越で那智に出るコースを考えた。しかし,小口の2軒の宿はいずれも満員だったので小雲取越・大雲取越は諦めざるをえなかった。で,今日はバスで新宮市に降りて熊野速玉大社に参詣して新宮に泊まろうというコースだ。そして,明日は新宮から海岸線の王大辺路(おおへち)を歩いて那智大社に参詣する予定だ。
朝食を摂りながらカミさんと今日は時間の余裕があるので昨日パスした大日越に挑戦することを相談した。カミさんの膝の調子も良いというので,大日越をしても一度熊野本宮大社にでて,そこからバスで新宮に向かうことにした。
女将に大日越への道を訊いて,登山口に向かい,8時45分に登り始めた。同宿したカップルは,女将の話によるとバスで熊野本宮大社にいく,という。会話が通じなかなったのか,それとも予定を変えたのだろうか。
今日も古道歩きは登山モードだ。民宿の裏手から登ったので,湯峯王子はパスしてしまった。のっけから急登だが30分登ったところで峠の頂上に鎮座する鼻欠地蔵に出会った。風化とコケで詳細が分かりにくかった。ここから下りとなり10分ほどで月見ケ丘神社に至った。
急坂を一気に下ると熊野川,本宮の街並みと大斎原の森が眼下に見えた。昨日,バスで通った大日越の登り口(降り口)に下り立ち,広々としたR168に出て大斎原に回った。朝一番の大日越は1時間でクリヤーした。
大斎原は熊野川と音無川が交わる中洲にある。かつてはここに熊野本宮大社があった。しかし,明治22(1889)年の大水害で大被害をうけたので本宮大社は現在のところに再建されたということだ。日本一大きいという鳥居が建っている。
自分だけでもう一度熊野本宮大社に参拝した。石段を登ると平安衣装の観光客が記念撮影している場面に出会った。こんどは参拝の順序を間違えることはなかった。しかしまぁ,本宮だけあってたくさんの神様をお祀りしていること。
カミさんの待つ参道に降りて,カミさんが目をつけていた,もうで餅を抹茶と一緒に食べた。
世界遺産センター前のバス停で新宮行きのバスを待っているとタクシー運転手が話しかけてきた。「新宮まではバスで3,400円かかるが自分なら3,000円で新宮のホテルまで行ってやるが,どうか」と言うことだ。渡りに舟とばかりにこの話に乗って新宮に向かった。メーターをオフにした運ちゃんは道すがら色々なことを教えてくれた。四年前の大水害でここR168も不通になり,回りのドライブインも水没したこと,新宮市内では速玉大社の他に上倉神社と浮島を見たら良いこと,などなど。そして,新宮駅から小口までは路線バスがあるから小口から那智までの大雲取越ができる,という情報は最も有益なものだった。さらに,明日の早朝6時20分で良ければにホテルに迎えに来て小口まで4,000円で送るから検討して見てくれ,と言ってくれた。彼は小口からUターンして熊野本宮大社で観光ツァーの予約をこなすということだ。 まずは,新宮駅でバスの時刻を調べてから連絡してくれとのありがたい申し出であった。ここでも熊野の人たちの暖かいおもてなしを受けた。
昔の人は本宮大社から舟で熊野川を下って速玉大社に詣でたというが,われわれは熊野川に沿うR168をタクシーで走ること小一時間で新宮市のステーションホテルに着いた。運ちゃんの連絡先を訊いて,ホテルで荷物を預かってもらい熊野速玉大社参詣に出掛けた。まず,新宮駅から小口までのバスの時刻を調べた。すると,7時46分のバスで神丸乗り換えで小口に8時54分に行けることが分かった。この時間ならホテルで朝食をとることができるので,タクシーは使わずに済みそうだ。
駅近くの寿司屋でランチを摂った。生ビールでサンマ寿司が入った握りランチを堪能した。浮島を見て速玉大社に歩いていけば酔いも醒めるだろうと,まずは浮島の森を目指した。浮島は5,000㎡ほどの小島で縄文時代の海退で植物の遺骸が堆積し,泥炭となった植物の遺骸によって水に浮くようになったものだ。遊歩道が設えてあって島に下り立つことはできないが,湧き水の増減によって島は昇降するという。まさに浮き島だ。
昔は島が動いて回りの人家に衝突したりしたが,人家が増えてきたので島の回りが埋め立てられた。その後に埋め立ての一部を復元して現在の状態になっているという経過が写真に残されている。浮島の植物は鳥が運んできた種によって北方系植物から亜熱帯植物が混在する珍しい生態系をなしているという。
浮島の森を見終わり,運動会でにぎわう小学校を横目に上倉神社に向かった。上倉神社も世界遺産に指定されている。
神倉神社は御燈祭(おとうまつり)の例祭で知られている。その様子をテレビで見たことがある。毎年2月6日に白装束に荒縄を巻いた2,000人もの男子が神倉神社から松明を掲げて石段を駆け降りて各自の家に火を持ち帰るという行事だ。その石段は源頼朝が寄進したと伝えられ,538段を数える。その険しさたるや,登るときはゼイゼイハァハァだが,降りるときは歩いて降りるにも脚が竦むような急傾斜だ。脇道に女坂があるようだったがもちろんこの男坂に挑戦した。この天を仰ぐように延びている石段を登り詰めたところが神倉神社だった。山上のゴトビキ岩が御神体ということだ。因みに,ゴトビキとは新宮の方言でヒキガエルのことだ。筑波山のガマ石よりも壮大だ。神社を背にして立つと,眼下に新宮の街並みと熊野灘が一望できた。
転げ落ちぬように一歩一歩に注意して石段を降りた。次の熊野速玉大社に向けて市街地をぶらついた。熊野速玉大社は明治16(1883)年に全焼し,昭和27(1952)〜42(1967)年に再建されている。地味な熊野本宮大社とは違って,鮮やかな朱塗りの大社だ。おまけに撮影も禁止されてなかった。境内には国の天然記念物の樹齢1,000年という,国内最大の,椰(ナギ)の大樹があった。神妙に熊野速玉大社の神々に参拝した。神宝館や隣の佐藤春夫記念館や川原屋横丁の見学,観光はパスした。
大社をでて熊野川の辺を歩き,阿須賀神社まで脚を延ばした。途中にあった新宮城跡は帰りに立ち寄ることにして,巡礼道を阿須賀神社に向かった。神社に参拝した後は,歩き疲れたので新宮城跡には戻らずに,ホテルに向かった。途中のショッピングモールで明日のお昼や補給食を調達したついでに,夕食をホテルの部屋でとることにして総菜,ビールなどを買い込んだ。
ホテルにチェックインして一汗流して,コインランドリーで洗濯をした。ホテルの部屋での食事は昨年,一昨年のドイツ自転車旅行で慣れているので,別段に侘びしいとも思わない。今宵も疲れて早寝をした。今日の旅程は大日越の3.8kmと速玉大社参詣を合わせて9.4km,6時間20分ほどだった。
2015年6月1日(月)
5時45分に目覚めた。7時前にホテルのレストランに降りて朝食を摂った。レストランは高校生の団体で一杯だった。バドミントンの試合があるらしい。そういえば今朝の新聞を見ると,昨日までツール・ド・熊野という国際自転車ロードレースが開催されていたようだ。 朝食を済ませて新宮駅のバス停に出発した。
7時46分の奈良バスの特急は,有名な日本一長いバス路線で,終点の八木駅まで6時間半かけて走る便だった。熊野古道歩きの路線バスは,さすがに世界遺産の地ということで,必ず英語での車内案内があった。8時19分に途中駅の神丸で降りて,8時40分発の別のバスに乗り換えて小口バス停に下り立った。今日は平日なので連絡がうまくいったが,休日だとこの時間に小口に来る便は無かった。
熊野古道大雲取越に入る前に廃校になった小学校でトイレを済ませた。登り口の雑貨屋で補給食を追加した。ここでもアジア系の外国人ファミリーに出会った。本当に国際色豊かな熊野古道だ。
身軽になって中辺路で最大の難所といわれる大雲取越に分け入った。これぞ古道といった風情の幽玄とも言える石畳の道が続く。20分ほどあるいたところで円座石(わろうだいし)が現れた。梵字が刻まれた岩の前にフカフカのコケが生むした石があった。
杉木立を縫って爽やかな風が吹き渡っている。晴れ渡ってはいるが,漂う幽玄の冷気のせいか,暑さは感じない。円座石から30分で楠の久保旅籠跡だ。この当たりには近年建てられた歌碑や苔むした地蔵尊がいくつか出迎えてくれた。地蔵尊はここで行き倒れた旅人を供養するものだろうか。
急な石段を登っていく脇でそっと励ましてくれているのはオカタツナミソウか。石段の脇でを喘ぎながら休んでいる中年夫婦に話しかければ,我々よりも一本早いバスで小口に着いて登り出した,と言う。那智大社の駐車場にクルマをデポしてバスで新宮から小口に来たそうだ。さすがに我々も一休みをせざるをえないような急な石段だ。ここが大雲取越の最大の難所の胴切坂だ。ようやくのことで胴切坂をクリヤーして少し楽になった。そこが標高870mの越前峠だった。この高さは筑波山とほぼ同じだよ,これじゃ古道歩きというよりも登山だね,とカミさんと話して一息入れる。
岩がゴロゴロする急坂を降り,小さなせせらぎを渡り,そしてまたまた石畳の道を急登すること30分ほどで着いた所が石倉峠だ。暑さは感じないが,さすがに疲れた。もう少し行けば地蔵茶屋跡の休息所があるが,ここで昼食をとることにした。今朝,小口の雑貨屋で買ってきた寿司やら昨日買っておいたパンを食べる。涼やかな風が吹き抜けて,暑さで体力を消耗せずに助かる。
古色蒼然とした苔むした石畳を滑らないように下っていくと地蔵茶屋跡の休憩所に着いた。ここには小屋,東屋とトイレの他にドリンクを売るベンダーマシーンもあった。幽玄の古道歩きから一挙に文明社会にもどったようだ。何体もある大雲取地蔵尊に道中の無事を祈願して歩き出した。
ここからは舗装された林道をテクテクと歩くことになった。右側の小川は文字通りの清流だ。カミさんが指さす先に魚が泳いでいるのが見えた。よく見れば体側に黒い斑点が見える。イワナだろうかアマゴだろうか。赤い小さな斑点があればアマゴだが林道から見ることはできない。天然のイワナ(アマゴ)が泳いでいる姿を見るのは初めてだ。反対から歩いてきた夫婦に「熊野古道はこの道でいいんですか,余りにも舗装された道を歩くので心配になった」と話しかけられる。舗装路を2kmもあるいた辺りで再び古道に分け入った。再び舗装路と出会ったところが色川辻だった。八丁の掘割・花折街道と書かれた道標があった。
色川辻からの急坂を登り,古道を歩くこと20分ほどで舟見峠に着いた。ここまでの古道は八丁坂または「亡者の出会い」と言われているとガイドブックにある。死に別れた親兄弟や知人が白装束で歩くのに出会うスポットだということだ。そんなことは感じもしなかったのは歩くことに集中していたせいだったのか。舟見峠のクマザサを分け入ってみたが木立の隙間には海は見えない。峠から直ぐ先の舟見茶屋跡からは眼下に広がる那智高原,熊野灘そして那智勝浦の町が望めた。しかし,ゴールの那智大社まではまだ4.5kmほど残している。
舟見茶屋跡から下り道と平坦路を歩くと,杉木立に石垣だけが残っている,登立茶屋跡だ。。当時は随分と賑やかな参詣道だったのだろう。茶屋跡から仙右衛門坂を1.5kmほど下る途中で花崗岩の砂粒が道に浮いていた。ズリッと滑って転んでしまった。その時に右のストックの上に尻餅をついたので,ストックが曲がってしまった。ケガはなかったが,カミさん曰く「右の崖下に危なく落ちるところだったヨ」。曲がったストックをばらして手に持って下ると開けたところに着いた。那智高原公園ということだが誰も遊んでいない。ローラー滑り台などのフィールドアスレチック遊具の端を下っていくと再び石畳の古道が始まった。道端の二丁石によって,残りは200mほどと分かるが,長い距離を歩いた脚・膝・腰には下りの石畳の古道は堪える。
下りが終わった所に那智山の道標があった。その隣には寺院のような建物があった。回り込んでみたらそこが青岸渡寺であった。青岸渡寺は西国三十三観音霊場の第一番札所だ。神仏習合のその昔は隣の熊野那智大社と一体の那智熊野権現の如意輪堂であった。それが明治政府の神仏分離令で神社の那智大社と別れて青岸渡寺となったのだ。神仏分離令によって全国に排仏毀釈運動が起こったが,那智熊野権現はその難を免れて残ったという。那智大社とともに世界遺産に登録されている。ご本体は如意輪観音様で内部にはその前立ちの如意輪観音様が祀られている。西国三十三札所には六ヶ寺があ如意輪観音様を祀っている。しかし,自分が廻った坂東三十三観音霊場には如意輪観音様を祀る札所はなく,秩父三十四観音霊場では二ヶ寺が祀っていたにすぎない。持参した般若心経の教典を取り出して,久しぶりに般若心経を唱えた。
青岸渡寺の隣は,もとは寺院と一体であった,熊野那智大社が鎮座していた。速玉大社と同様に鮮やかな朱塗りの神社だ。ここにお参りをして,ようやくのことに熊野三山詣を果たすことができた。境内には樹齢850年という大楠が聳えていて,胎内巡りが出来るようだ。
青岸渡寺の脇からお馴染みの那智滝と三重塔のコラボ風景を眺めて,土産物屋が建ち並ぶ参道を宿に向かった。土産物屋の中程に硯専門店があり,店主が出向いて来て那智黒石の硯のデモを見せてくれた。後でガイドブックをみたら,山口光峯堂という皇室にも献上している有名な店・工房であった。店主の勧めで墨を磨らせてもらった。えっこれで,というような軽いタッチにも関わらず黒々とした墨液になった。書道をたしなむカミさんもチョットした驚きのようだった。
美滝山荘にたどり着いたのは17時になろうという時刻だった。さっそく風呂で汗を流し,熊野詣の白衣をまとった団体に交じって夕食をとった。宿の主人の言うことには,めずらしく今宵は外国人客はないとのことだった。酔い醒ましに,迫り来る夕闇の中の那智大滝を見に表に出てみた。滝は明朝ゆっくりと見学することにしよう。本日の行程は18.1kmで7時間54分かかった。明日は那智駅まで大門坂を通って歩いて熊野古道中辺路を終わりにしよう。
2015年6月2日(火)
5時半に目が覚め,7時に朝食を摂る。宿に荷物を預かってもらい,那智大滝と青岸渡寺,熊野那智大社の参詣に出掛けた。宿は今日は休業という。
カミさんは子供の頃にここ那智を訪れたことがあるという。当時は滝は一本だったというが,今は三本に分かれて落ちている。宿の主人の言うことには,水量が少ないときは1本になるそうだ。台風12号の爪痕は滝壷にも残っているというが,以前の状態を知らない自分にはそれが分からない。
荘厳な那智大滝と飛瀧神社の参拝を終え,石段を登って三重塔に廻った。この那智大滝をバックに見る那智山青岸渡寺三重塔は1581年に消失したものを1972年に再建したものだ。那智山の有名なビュースポットとなっている。
三重塔から青岸渡寺に回ると,そこではすでに西国三十三札所巡礼の一団がお参りしていた。隣の那智大社では巫女さん達が神楽の練習をしていた。
参道のお土産屋で息子や知人へのお土産を買った。やはり梅とマグロ・カツオの加工品だな。
買い物を終えて大門坂に入り石段を降りていった。途中の多富気(たふけ)王子を過ぎる頃には下からゼイゼイハァハァと息を切らして登ってくる観光客に出合った。夫婦杉を過ぎると平安衣装着付け体験ができる茶屋があった。平安人になって熊野古道を歩いてみるという趣向だ。そこを過ぎて大門坂バス停で一般道路に出会った。
一般道から案内板にしたがって脇道に入った。市野々王子を通りかかったところで雨に降られたので,民家の軒先を借りて雨支度を整えて歩き続けた。那智ふだらく霊園の中を通って古道らしい雰囲気の旧街道に入る。那智大社から普陀洛山寺までのこの道は「曼荼羅の道」と標識が教えてくれた。尼将軍供養塔をす過ぎると道は竹林の中の遊歩道になった。竹林を抜けて集落が終わると那智天然温泉公園の看板があった。営業しているのかどうか判らないほど人通りは無かった。護岸工事中の那智川にそった退屈な県道43号を歩いて那智駅を目指した。やがて那智川を右に分けてR42のバイパスの那智勝浦新宮道路をくぐり県道43号から那智駅方面に進むと普陀洛山寺に到着した。那智大社から7kmほどの道程を2時間半かけての歩きだった。
普陀洛山寺も世界遺産に指定されている。1808年までは大伽藍を有する壮大な寺院だったが,台風で主要な建物は滅びた。その後は仮本堂であったのを1990年に現在の姿に再建された歴史を持っている。この寺から渡海上人たちが西方浄土の普陀洛を目指して渡海した渡海船のモデルが展示されていた。記録では25人の渡海上人がここから出発したという。しかし,上人達の末路を記す記録はない。普陀洛山寺の脇には浜の宮王子跡があった。ここは中辺路,大辺路,伊勢路の参詣道の分岐点にあたっている。
普陀洛山寺の参拝を終えて那智駅に立ち寄った。驚いたことには,那智大社・普陀洛山寺の世界遺産を持つ地でありながら,無人の駅であった。駅舎の脇の世界遺産情報センターに付設された丹敷の湯はボイラーの修理中で営業してなかった。ここで一汗を流そうと歩いてきたのに残念だ。やむなく,近くの喫茶店でお昼を摂ることにした。自分はカツカレーを,カミさんはエビフライ定食を食べていると先ほど大門坂で出会った中年夫婦が入ってきた。話をしてみると,隣の勝浦のホテルを起点として那智大社,速玉大社をまわっている宮崎県の人たちだった。ここでも一期一会の出会いのはずが再会を果たしたわけだ。どうも熊野は人を出会わせる霊力を秘めた地のようだ。
食事を済ませてバスで紀伊勝浦駅まで行くことにした。駅に降りたち帰りの時刻表を眺めていると駅員さんに声を掛けられた。今日の夕方に新宮駅まで戻り,そこから特急で名古屋まで行く切符を持っていることを話した。そうしたら,その特急はここから出るので切符を変更してあげると申し出てくれた。乗車券と特急券を紀伊勝浦からのものに変更するに当たって一人160円を追加するだけだった。なんと親切な和歌山の駅員さんだと,カミさんともどもお礼をのべた。帰りの足の手配が済んだので,ロッカーに荷物を預けて勝浦散策に出掛けた。先ずは勝浦港に行ってみた。するとここから遊覧船で紀の松島という名勝の島巡りができるという情報を得た。14時10分の観光船の切符を買い求め,出航までの時間を付近の横丁などの散策に充てた。
やがて観光船の乗船時刻となり,紀の松島巡りがスタートした。
赤灯台を過ぎて湾外に出た船は巨岩の隙間を縫って島々を巡った。洞窟のある島,洞窟内に設えたホテルの温泉,露天風呂の島,ラクダやライオンになぞらえた奇岩を次々と巡った。やがて,太地町立くじらの博物館と捕鯨船が見えてきた。船は太地町に寄港して,勝浦に戻る客を乗せて勝浦に戻るコースを取った。
一時間ほどの遊覧が終わり桟橋に戻ってきた。まだ時間があるので,歩いて弁天島を散策する。潮が引けば歩いて島まで渡れるという。
街の散策を終えて駅に戻ると駅前の食堂の「持ち帰りのお弁当できます」の看板が目に付いた。そこで夕食の特製まぐろ丼を注文しておいて,その間に駅裏のホテルの立ち寄り湯で汗を流すことにした。ホテルの温泉は源泉掛け流しで,思った以上のものだった。17時10分の南紀8号に乗ってビールで乾杯し,特製マグロ丼に舌鼓を打ちながら車窓から熊野灘を眺めて旅の余韻に浸った。名古屋で新幹線に乗り換え,上野で最終電車に乗り継ぎ家に着いたときは翌日になっていた。
熊野三山を訪ねて熊野古道中辺路を歩くこと78.4kmの旅は終わった。緑深い山々に囲まれた中辺路は辛くてとても自分を省みるような旅は出来なかった。神仏混交の神秘的な幽玄の世界を感ずる余裕もなく,ただただ歩き通すことばかりを考えた修行の旅だった。翌朝になって「伊勢に七度,熊野に三度」といわれるほど何度も参詣を繰り返した平安,鎌倉,江戸の旅人に倣って,我々も今度は高野山から小辺路を歩いてみようか,とまだ疲れの残る二人だが早くも計画を語り合った。吉野の桜を見ての小辺路散策がいいね,とカミさんが楽しそうに話す。つい昨日まではへとへとになって歩いた熊野古道中辺路だったのに。
熊野の人々の暖かいおもてなしとさまざまな人たちとの出会いがいっぱいの旅だった。
このブログを書いている今,熊野詣で蘇った自分を意識することはない…。
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